神戸家庭裁判所 昭和44年(家)1549号 審判 1976年4月24日
本籍 大阪市○○○区○○○町五八〇番地
住所 奈良県○○郡○○村△△△一四五三番地
申立人 福島三郎
明治二八年七月一一日生
上記申立人代理人弁護士 溝口喜方
同 溝口喜文
同 阿部甚吉
同 阿部泰章
同 石井政一
上記申立人代理人阿部甚吉復代理人 谷池洋
本籍 神戸市○○区○○○町×丁目六七四番地の一
住所 同市同区同町×丁目一七番二四号
申立人 千葉二郎
明治三七年一一月一六日生
上記申立人代理人弁護士 堀弘二
同 太田忠義
同 増井俊雄
本籍 大阪市○○○区○○○町×丁目四四四番地
住所 同所○○医療生活協同組合内
申立人(承継前申立人亡山梨五郎相続人) 広島咲子
明治三五年八月二日生
<ほか二名>
本籍 大阪市○○○区○○○町二一番地
住所 同市同区同町二〇番地
申立人 福島春子
大正三年三月一三日生
<ほか三名>
上記申立人福島春子ら四名代理人弁護士 尾嶋勤
住所 大阪市○○○区○○○×丁目一五番三四号
申立人 学校法人○○学院
上記申立人代表者理事長 千葉二郎
上記申立人代理人弁護士 岡本拓
上記申立人代理人復代理人弁護士 田浦清
同 中山俊治
上記申立人代理人弁護士 堀弘二
同 太田忠義
同 増井俊雄
本籍 兵庫県芦屋市○○町一〇番地
住所 神戸市○○区○○○○×丁目市営住宅××号棟×××号
申立人 長野七郎
昭和二年一〇月一三日生
住所 東京都○区○○○×丁目六番二号
申立人 財団法人○○○○協会
上記申立人代表者理事長 岡山むつみ
上記申立人財団法人○○○○協会代理人弁護士 内藤頼博
同 古沢博
本籍 神戸市○○区○○○町×丁目六七四番地の一
住所 同市同区同町×丁目一七番二四号
申立人 千葉(旧姓群馬)さつき
大正六年三月二七日生
本籍 兵庫県西宮市○○○○町八〇番地
住所 松山市○○○五九九の二山口九郎方
申立人 山口花子
明治三三年一二月二八日生
上記申立人山口花子代理人弁護士 石井政一
同 中村春男
本籍 兵庫県西宮市○○町一一二番地
住所 同市○○町七番一八号
申立人 長野八郎
明治四二年六月五日生
上記申立人代理人弁護士 山口幾次郎
同 中村春男
本籍 兵庫県芦屋市○○町二四三番地
住所 神戸市○○区○○×丁目一一番二一―四〇五号
申立人(承継前申立人亡福岡朝男相続人) 福井松子
昭和七年一月二六日生<ほか三名>
上記申立人四名代理人弁護士 森田宏
本籍 大阪府豊中市○○町×丁目一七一番地
住所 同市同町×丁目九番一五号
申立人 長崎梅子
大正一一年一一月五日生
本籍 兵庫県西宮市○○町二〇六番地
住所 同市同町五番一四号
申立人 熊本菊子
大正六年五月五日生
上記申立人熊本菊子代理人弁護士 澤村英雄
同 高野裕士
本籍 東京都○○区○○○×丁目一一番地
住所 同区○○○×丁目二番二号
申立人 宮崎十郎
明治三八年七月二七日生
上記申立人宮崎十郎代理人弁護士 鍛治良堅
同 鍛治千鶴子
本籍 埼玉県浦和市大字○○一七七番地
住所 同市大字△△四〇〇番地
申立人 栃木月子
昭和一〇年一月六日生
<ほか六名>
除本籍 大阪市○区○○○町七番地
最後の住所 神戸市○○区○○町△△六七四番地の一
被相続人 亡千葉一郎
明治九年六月四日生
上記各申立事件について、当裁判所は次のとおり審判する。
主文
一、被相続人亡千葉一郎の相続財産中より
1 申立人福島三郎に対し金五、〇〇〇万円
2 申立人千葉二郎に対し金八、〇〇〇万円および別紙目録(一)記載の不動産
3 申立人山梨六郎、同和歌山種子、同広島咲子に対し金四〇〇万円
4 申立人福島春子、同福島夏子、同福島秋子、同福島冬子に対しそれぞれ金四〇〇万円
5 申立人学校法人○○学院に対し金一二億円および別紙目録(二)記載の不動産、別紙目録(三)記載の有価証券、別紙目録(四)記載の動産
6 申立人財団法人○○○○協会に対し金七、〇〇〇万円
7 申立人千葉さつきに対し金二〇〇万円
をそれぞれ分与する。
二、その余の申立人らの本件各申立はいずれもこれを却下する。
理由
第一、申立の趣旨ならびに実情
一、申立の趣旨
申立人に対し、被相続人の相続財産を分与するとの審判を求める。
二、申立の実情
1 申立人福島三郎
申立人は被相続人の異母弟である。すなわち、被相続人は申立外亡千葉A男とB′女(以下本審判書中では単にB女と書くことにする)との間に出生した嫡出子であり、一方申立人はA男と福島C女との間に出生した非嫡出子であって、両名は異母兄弟の関係にあるところ、申立人は、A男の認知を受けていないので、被相続人の法定相続人にはなりえないが、両名間の異母兄弟としての濃い自然的血縁関係からみて、被相続人の特別縁故者に該当するというべきである。
2 申立人千葉二郎
申立人は被相続人の五親等の血族であるところ、申立人の父亡D男は被相続人の財産管理業務を掌り、申立人の学資も被相続人から支給され、また、D男死亡後は、申立人が被相続人の財産管理に従事し、かつ、昭和一九年六月頃からは、家族共々被相続人と同居し、生計を同じくしてきたが、被相続人から労働に対する対価としての報酬等を受けることはなく、申立人とその家族の生計費は勿論、申立人の子供の学資、婚姻費用等もすべて被相続人から支給され、被相続人の生計費の下に同人の家族として生活してきたものである。
よって、特別縁故者として、被相続人の相続財産の分与を求める。
3 申立人山梨六郎、同和歌山種子、同広島咲子
イ、申立人三名の被相続人である承継前申立人山梨五郎(以下単に五郎という)は昭和三五年八月八日以降被相続人の執事兼秘書役として同人の不動産経営事務に従事することとなり、賃貸料の集金、不動産の現状の監視、賃貸借契約の締結および変更、契約違反者との交渉、不良賃借人の整理、訴訟事件における弁護士との連絡、被相続人のその他の財産の管理、所得税の申告等の職務を行ってきたが、五郎の努力によって、五郎就職以前の不良賃借人はおおむね整理され、延滞賃料額は従前の約五分の一以下となったものであって、その功績は極めて高く評価されるべきであり、また被相続人も五郎を厚く信頼し、五郎以上に被相続人から信頼されていた人物はいなかった。
したがって、以上の理由から、五郎は被相続人の特別縁故者に該当するものである。
ロ、ところで、五郎は相続財産分与の審判申立後の昭和四八年一一月一三日死亡したので、五郎の相続人である申立人山梨六郎、同和歌山種子、同広島咲子の三名が五郎の右申立を承継した。
4 申立人福島春子、同福島夏子、同福島秋子、同福島冬子
被相続人は、戸籍上の記載とは異なり、真実は申立人らの母E女の実兄であり、したがって、申立人らは被相続人の代襲相続権者ということになるが、仮に、申立人らと被相続人とが右身分関係になくても、両者の間には血縁関係が存するところ、申立人らが現在居住している土地は、もともと申立人らの祖父福島F男の所有であったが、申立人らの父福島G男の時に被相続人の所有に移ったものである。
しかして、申立人らは出生以来同地内で生活しており、同地に愛着を持っており、また、被相続人からは同地の管理を依頼されていた。
よって、申立人らが被相続人の代襲相続権者でないとしても、上記の理由により、その特別縁故者に該当するものであるから、相続財産の分与を求める。
5 申立人学校法人○○学院
イ、申立人学校はその前身を○○高等女学校と称し、大阪日蓮宗寺院団によって大正一〇年四月一五日開校されたが、昭和二〇年六月八日財団法人○○高等女学校と、さらに昭和二六年三月一日現在の学校法人○○学院とそれぞれ改称されて今日に至っており、現在職員数は一一〇名、学級数四四クラス、生徒数二、〇〇〇名を擁し、卒業生は一六、〇〇〇名にのぼっている。
ロ、被相続人は、大阪日蓮宗寺院団による学校経営が行詰ったため、昭和六年六月一日以降校主(校主とは、当時の用例で学校の個人所有者を指称した)として、申立人学校が法人組織に変更後は理事長として、死亡時に至るまで三八年以上の長きにわたって申立人学校の経営に参画してきたが、校主として経営に当っていた当時は、校地、校舎等一切の施設、備品は被相続人の所有物であり、また理事長に就任後は、昭和二〇年六月八日校舎(鉄筋コンクリート三階建本館校舎ならびに屋内体操場)を、昭和三八年一一月二二日校地三、〇〇〇坪余(当時の時価で二億円を下らない)を申立人学校に寄付し、その財政的基盤の確立に多大の貢献をなした。
ハ、被相続人は不動産業を本業としていたが、青少年の教育、徳化の面にも多大の関心を有しており、申立人学校の教育理念に関しても一見識を持っていた。また被相続人は通常は校主ないし理事長として週数回登校して教育内容、施設ならびに備品の整備等について指示し、さらに入学式、卒業式、文化祭、体育祭等にも必らず出席するとともに、芭蕉忌、家隆忌、新年の論語会等の行事を催し、職員や生徒の文芸、思想的啓蒙に努めていた。
ニ、ところで、被相続人は昭和三九年頃から申立人学校に短期大学を設置することを具体的に計画し、関係官庁との折衝や校地の選定等に当ったが、右計画は、被相続人が昭和四一年から病床に臥したため、同人の存命中には実現に至らなかった。しかしながら、被相続人は短期大学の設置を熱望していたものであって、短期大学の設置こそが被相続人の最大の遺志であったものである。
ホ、以上で明らかなとおり、申立人学校と被相続人とは特別縁故の関係にあるものであるところ、申立人学校としては右被相続人の遺志を実現するため、短期大学の設置に要する費用に相当する被相続人の相続財産の分与を求める。
6 申立人長野七郎
申立人と被相続人とは五親等親族の関係にある(申立人の祖父故長野H男は被相続人の父千葉A男の実弟)ところ、被相続人にはその後継者がいないため、被相続人は上記長野H男および申立人の両親と話し合いの結果、同人らとの間に、申立人が婚姻し、長男が出生した時点において申立人と養子縁組をなすとの養子縁組の予約を結び、申立人を将来の後継者として遇していたが、正式手続に至らぬまま死亡した。しかしながら上記の事情により、申立人は実質的には被相続人の相続人たる地位を有するものであり、仮にそうでないとしても、被相続人の先祖の千葉家と申立人の長野家の墓碑は同一囲内にあるうえ、申立人の父故長野I男が千葉A男の墓碑建立の際、被相続人に全面的に協力しているので、申立人は被相続人の祭祀等を行う義務を有している。
以上、いずれにせよ、申立人は被相続人と特別縁故の関係にあるので、被相続人の相続財産の分与を求める。
7 財団法人○○○○協会
申立人協会は昭和三年各種産業における中堅青年の養成等を目的として設立されたものであるところ、被相続人は翌昭和四年一一月申立人協会の評議員に就任し、以後死亡時までその地位にあったが、就任直後の年に二回の中堅青年の講習には欠かさず出席して青年達と寝食を共にして談合し、また昭和八年の申立人協会本部会館建設の際には、建設委員長として本部会館の建設に大いに活躍し、時には建築中の仮小屋に泊り込んで自ら勤労奉仕をする一方、関西方面での用務のため訪れた建築委員には自宅を宿泊場所に提供してその活動が終了するまで滞在させ、第二次世界大戦後も、上京の際は千葉県船橋市にある申立人協会の○○○農場を訪れたり、昭和三六年二月二五日大阪で申立人協会の関西大会を開催した際には、出席して講演を行う等して申立人協会の発展のために大いに尽力したが、その態度は、当初から一貫してお金ではなく身体で奉仕するという、いわば資産家の被相続人にとっては、金銭的に援助するよりはかえって骨が折れるものであって、多忙の身でありながら、暇をつくっては申立人協会のために活動し、常々申立人協会が実直に事業をすすめていくよう助言、指導を行ってくれたものである。
以上の申立人協会と被相続人との関係から、申立人協会は、被相続人の特別縁故者に該当するので、被相続人の遺徳を永く顕彰するため、申立人協会の事業の一層の充実、拡大を計画し、その費用として、申立人協会の本部会館建設資金二億円、千葉一郎翁記念基金八億円、合計一〇億円を被相続人の財産から分与されることを求める。
8 申立人千葉(旧姓群馬)さつき
申立人は昭和四一年七月九日から被相続人死亡時までの約二年四ヶ月間同人の看護にあたったものであるが、右の期間中最初の数日間を除き、それ以後は被相続人方に住込んで、休暇も殆んどとらず、昼夜の別なく献身的に被相続人の看護に努めたものであり、その看護ぶりは被相続人に充分の満足を与えるものであった。
以上の理由により、申立人は被相続人の特別縁故者として、同人の相続財産の分与を求める。
9 申立人山口花子、同長野八郎
被相続人の家系である千葉家は代々竹の皮問屋を営み、土地、建物を多く有する資産家であり、一方申立人らの家系の長野家は西宮市の旧家で、塩御捌所、両替商を営んでいたものであって、両家は古くから商取引上深い付合をしていたものと思料されるところ、被相続人の祖父先代千葉A男には後継者がいなかったので、申立人両名の曾祖父先代長野H男の長男がA男の養子となって二代目A男となったもので、被相続人は右二代目A男の子供である。
他方、長野家では初代長野H男の後継者に二代目A男の弟がなり(二代目H男)、さらに、その後継者に養子J男(富山K男の二男)がなった(三代目H男)が、申立人山口花子は三代目H男の三女、申立人長野八郎は三男である。したがって、申立人両名と被相続人とは五親等親族の関係にあるものである。
ところで、以上の理由で千葉家と長野家は親戚関係になったので御互いに親密な交際を続け、また三代目H男は不動産周旋業をも営んでいたため、被相続人とは取引上の付合も浅からぬものがあったが、さらに、二代目A男の分骨が長野家累代墓地内に納められ、かつ同所に同人の墓碑が建立されたので、現在に至るまで長野家においてその供養を続けており、被相続人もこれに対し謝意を表していたこと、被相続人と三代目H男の妻L女の妹を婚姻させようとの話も一時はあったこと、三代目H男の二男I男死去の際、同人の二男M男と申立人長野八郎の長女N女とを婚姻させたうえ、両名を被相続人の養子にしようとの話も出たことがあること等は特に両家の親密な関係を窺わせるものである。
さらにまた申立人山口花子は被相続人の孤境にいたく同情し、被相続人の死亡前数年間同人を見舞ったり、手紙を交す等して御互いの老境をいたわり合っていたものであって、被相続人も申立人山口花子に対しては十分好意を寄せていたものである。
以上の理由により、申立人両名は被相続人の特別縁故者として、同人の相続財産の分与を求める。
10 申立人福井松子、同福岡夕介、同福島みのり、同福岡竹子
イ、承継前申立人福岡朝男(以下単に朝男という)の母福岡O女は被相続人の父千葉A男の妹なので、朝男は被相続人の従兄弟に当るが、A男は千葉家の養子となり、一方O女は、その母の実家である福岡家が絶家していたので、同家を継いだが、O女が同家を再興するについてもA男の意見ならびに援助によったもので、A男は機会ある毎にO女の援助を続けたが、同人死亡後は被相続人がO女と朝男に援助を続け、朝男の結婚祝その他冠婚葬祭の参列はもとより、戦時中の荷物の疎開、戦災後の朝男方の建築費の出損等朝男らの生活の面倒をみ続けていた。
他方、O女および朝男は経済的な面では被相続人の支えとはなりえなかったが、同人の唯一の親族としてその精神的な支えとなり、また被相続人所有地の公租の代納等できる限りの支援をなし、さらにA男の菩提(同人の墓は朝男の祖父母の墓と並んで建立されている)の法要管理等も続けてきた。
ところで、西宮市○○○○町九六番地および九七番地の被相続人所有の、宅地(合計一二二七・一五m2)はO女が明治三七年A男と共同で買受け、各二分の一の共有物件として所有していたものであり(O女の持分は夫P男名義で登記していた)、後日土地全部の所有名義は被相続人に移ったけれども、右土地は朝男の近くにあり、もともとO女が管理していた関係もあって、被相続人は朝男にO女存命中より同地の約二分の一の空地部分を、同地上に居宅を建築のうえ贈与する旨確約していたもので、朝男が被相続人の死亡の数年前、同人方を訪れた際にも同様の確約をしてくれた。
以上みてきたように、朝男は被相続人の特別縁故者に該当し、また被相続人が遺言をしていたならば、前記土地を朝男に遺贈したものと思われる。
ロ、ところで、朝男は相続財産分与の審判申立後の昭和五〇年九月二四日死亡したので、朝男の相続人である申立人福井松子、同福岡夕介、同福島みのり、同福岡竹子の四名が朝男の右申立を承継した。
11 申立人長崎梅子
申立人の母福岡O女と被相続人とは叔母、甥の関係にある(O女は被相続人の父千葉A男の妹)ところ、被相続人は、申立人の父福岡P男とは商売上の関係で共同出資をしたことがあるうえ、特に第一次世界大戦の後頃には兄弟以上の親交を重ね、また、申立人の幼少時には申立人方へ百貨店から高価な品物を送ってくれたり、申立人が昭和一五年に阪神電鉄に就職した際は保証人になってくれ、さらにO女の葬儀にも参列してくれたが、常々O女や申立人に対し、土地と家を贈与する旨話していた。
以上の理由から、被相続人の特別縁故者として、その相続財産の分与を求める。
12 申立人熊本菊子
申立人は、被相続人の父千葉A男の兄弟二代目長野H男の曾孫であるが、曾祖父二代目長野H男と祖父長野J男(後日三代目H男を襲名)は被相続人の幼少の頃から同人の面倒をみており、また、祖父J男は明治四一年A男の墓を西宮市の海清寺に建立し(後日同市の満池谷墓地に移転)、その供養をしたが、申立人の母Q女も祖父の気持を受けついでA男の墓参を欠かさず、その供養を続けてきた。尚Q女は、千葉家の家人の病気の看病や他の用件の手助け等もしており、このため被相続人らから感謝されていた。一方申立人も祖父や母の遺志を受けついで幼少から現在までA男の墓参を欠かさないでその供養を続けてきたが、被相続人も感謝していたと聞いている。
このように、曾祖父、および祖父の代から、被相続人とは縁があり、祖父らの遺志を受けついで被相続人の父A男の墓参を欠かさずその供養を続けてきた申立人であるので、特別縁故者として、被相続人の相続財産の分与を求める。
13 申立人宮崎十郎、同岩手陽子
申立人らは被相続人の父千葉A男の養弟千葉R男の孫にあたり、被相続人の実質的な相続権者である。したがって、申立人らは被相続人と特別縁故の関係にあるので、被相続人の相続財産の分与を求める。
14 申立人栃木月子、同山形星子、同宮崎十三郎、同秋田稲子、同徳島米子、同宮城笹子
申立人らは被相続人の父千葉A男の養弟千葉R男の曾孫にあたり、被相続人の実質的な相続権者である。したがって、申立人らは被相続人と特別縁故の関係にあるので、被相続人の相続財産の分与を求める。
第二、現時点で本件審判をなすことの当否について
一、理論的な問題は別として、特別縁故者への相続財産分与事件の審理中に、相続権の有無が訴訟で争われている場合には、実質的には、いわば相続権の主張は本位的請求、特別縁故者の主張は予備的請求にあたるものと理解されることを考えると、相続財産分与事件の審判は、原則的には相続権確認訴訟事件の確定をまってなされるのが妥当であると解されるところ、≪証拠省略≫によれば、本件申立人宮崎十郎ら八名の申立人が原告となって、本件相続財産管理人を被告として、昭和五〇年五月三一日神戸地方裁判所に相続権確認訴訟を提起し、現在右事件が同庁昭和五〇年(ワ)第四八六号事件として、係属審理中であることが認められる。
したがって、現時点で本件審判をなすことの当否が一応問題になるとも思われるが(現に、申立人宮崎十郎申立代理人鍛治良堅は昭和五〇年五月三〇日の審問期日において、相続権確認訴訟の審理前に本件の審理をなすことについて反対である旨の意見を述べている)、当裁判所は、次の理由により、本件の場合は前記訴訟事件の確定前に審判をなすことを妥当であると考える。
二、民法九五八条の二は民法九五八条による相続人捜索公告の期間満了の効果を規定し、右捜索の公告の期間内に相続人である権利を主張する者がないときは、右期間後に出てきた相続人は、相続財産についてその権利を行使できない旨定めているが、本規定は特別縁故者の地位を保護し、法律関係が複雑化するのを避けるために設けられたものと理解されるので、相続人であることを主張せんとする者は、相続人捜索の公告期間内にその権利を主張することが絶対的に必要であると解され、右捜索の公告期間の進行は、相続権確認訴訟事件の提起等いかなる事由の存在によっても何ら影響を受けることなく、したがって、期間の進行の停止あるいは延長というようなことはなく、また、たとえ公告期間満了時において債権者、受遺者等に対する清算が未了であったり、分与の審判がなされていなくても、相続人捜索の公告の期間満了の効果は発生し、期間内に申出なかった相続人は失権させられるものと解するのが相当である(この点で後述する相続財産分与の申立期間についての解釈とは異なるものと解する)。
これを本件についてみるに、≪証拠省略≫によれば、神戸家庭裁判所は昭和四四年六月二〇日相続財産管理人の申立によって、被相続人千葉一郎の相続財産に対し相続権を主張する者は昭和四五年二月一三日までにその申出をなす旨の相続人捜索の公告をしていること、一方申立人宮崎十郎、同岩手陽子、同宮崎十三郎、同山形星子、同栃木月子、同秋田稲子は昭和四七年一二月二三日に至って、申立人徳島米子、同宮城笹子は昭和四八年二月一日に至って、それぞれ当庁に対し相続権の申出を行っていることが認められる。
したがって、本件においては、相続人捜索の公告期間は昭和四五年二月一三日をもって満了しているところ、申立人宮崎十郎ら八名の申立人は右期間満了後に相続権の申出を行っていること明らかであるから、同申立人らは民法九五八条の二によって相続人としての権利を失権させられたものであり、相続人としての権利を行使できないものである。
以上によれば、たとえ現在申立人宮崎十郎らの前記相続権確認訴訟事件が係属中であっても、右主張は理由がないものと解されるので、当裁判所は現時点で本件分与の審判をなしても妥当性に欠けるものではないと考え、本件分与の審判をなすものである。
第三、本件各申立の適法性の有無についての判断
一、被相続人千葉一郎の死亡から相続人捜索の公告に至るまでの時間的経過
≪証拠省略≫によれば、被相続人千葉一郎は昭和四三年一〇月二七日死亡し、同人につき相続が開始したが、その相続人のあることが明らかでなかったので、同年一一月四日千葉二郎ら三名によって神戸家庭裁判所に被相続人の相続財産管理人選任の申立が行われ、同月一四日相続財産管理人選任の審判がなされたこと、民法九五二条二項による公告は同月一八日神戸家庭裁判所掲示板に掲示され、かつ同月二六日官報に掲載されてなされたこと、次いで、民法九五七条一項による債権者および受遺者に対する請求申立の公告が昭和四四年三月三日官報に掲載してなされ、右請求期間は同月四日から二ヶ月以内と定められたこと、右期間満了後、なお、相続人のあることが明らかでないので、相続財産管理人の請求により、同年六月一三日公告期間を昭和四五年二月一三日までと定めて、民法九五八条による相続人捜索の公告手続をなすことが相当とされ、右公告は昭和四四年六月一四日神戸家庭裁判所掲示板に掲示され、かつ同月二〇日官報に掲載されてなされたこと、右相続人捜索の公告期間内である昭和四五年二月一三日本件相続財産分与事件の申立人である福島春子、福島夏子、福島秋子、福島冬子が相続権の申出を行い、さらに右四名は捜索の公告期間の満了後である同年三月一六日相続財産管理人を被告として、神戸地方裁判所に相続権確認訴訟を提起し、右訴訟は昭和四八年九月一一日原告らの控訴取下によって終了し、同時点で同人らにつき相続権の不存在が確定したことは明らかである。
二、本件各申立の申立時期
申立人福島三郎が昭和四四年一〇月三日、同千葉二郎が昭和四五年二月二一日、同山梨六郎、同和歌山種子、同広島咲子の承継前申立人山梨五郎が同年三月一七日、申立人福島春子、同福島夏子、同福島秋子、同福島冬子が同月一八日、同学校法人○○学院が同年四月七日、申立人長野七郎が同月二一日、同財団法人○○○○協会が同年五月四日、同千葉(旧姓群馬)さつきが同月一一日、同山口花子、同長野八郎が同月一三日、同福井松子、同福岡夕介、同福島みのり、同福岡竹子の承継前申立人福岡朝男が昭和四六年一一月一一日、申立人長崎梅子が同月一七日、同熊本菊子が同年一二月二一日、同宮崎十郎、同栃木月子、同山形星子、同宮崎十三郎、同岩手陽子、同秋田稲子、同徳島米子、同宮城笹子が昭和四八年四月二〇日それぞれ本件各申立を行っていることは本件各記録上明らかである。
三、1 相続人捜索の公告期間満了前になされた分与の申立の適否について
民法九五八条の三第二項によれば、分与の申立は民法九五八条の相続人捜索の公告期間満了後になされることが要求されているので、前記一でみた時間的経過からみると、本件では右期間が満了する昭和四五年二月一三日までは分与の申立は一応許されないもののように思料されるところ、前記二でみたように、申立人福島三郎の本件申立は公告期間満了前の昭和四四年一〇月三日になされているので、右申立の適否について検討する必要がある。
民法九五八条の三の規定からみると、申立人福島三郎の本件申立は瑕疵ある申立であり、不適法といえなくもないが、申立の趣旨は、相続人が不存在の場合には相続財産の分与を求めるという条件付のものと解されるから、相続人捜索の公告期間が満了し、分与の申立期間が適法に開始するに至った場合には、その瑕疵は治癒され、適法な申立として扱ってよいものと解する(結論同旨松山家裁宇和島支部審判、昭和四二年一〇月二七日、家裁月報二〇巻六号六七頁、大阪家裁審判、昭和四〇年一一月二五日、家裁月報一八巻六号一七三頁)。
そして、本件では、相続人捜索の公告期間は前記一でみたように、昭和四五年二月一三日満了し、次いで、分与の申立期間は後記二でみる如く、昭和四八年九月一二日から適法に進行を開始したものと解されるのであるから(申立人宮崎十郎らの相続権の申出について考慮の必要がないことは前記第二で述べたとおりである)、結局、申立人福島三郎の本件申立は適法とみるのが相当である。
2 本件における分与の申立期間の始期
前記一の時間的経過からみると、相続人捜索の公告期間は昭和四五年二月一三日満了しているので、本来ならば分与の申立期間は同月一四日から進行を開始し、したがって、分与の申立は同年五月一三日までの三ヶ月以内に行わなければならず、これ以後になされた申立は期間経過後の申立として許されないもののように思料され、そうとすれば、前記二でみた承継前申立人福岡朝男以下一一名の各申立は不適法とならざるを得ないように思われる。
しかしながら、本件では前記一でみたとおり、相続人捜索の公告期間内に適法に相続権の申出を行った福島春子ら四名が右公告の期間満了後の昭和四五年三月一六日相続権確認訴訟を提起し、昭和四八年九月一一日に至って同人らの相続権の不存在が確定しているのであるから、このような場合でも、なお、分与の申立期間は相続人捜索の公告期間満了後に直ちに進行を開始すると解すべきか否かは一つの問題である。
この点については、周知のとおり見解の分かれるところであるが、民法九五八条の三第二項の趣旨は、分与制度の本質から考えて、分与の申立は相続人の不存在の確定した後なされることを要求しているものと解するのが妥当であるから、本件のように、相続人捜索の公告期間内に相続権の申出を行った自称相続人について相続権の有無が争われている場合には、未だ相続人の不存在は確定していないのであるから、相続人捜索の公告期間が満了しても分与の申立期間は進行せず、相続権の不存在の確定時から全員について三ヶ月の申立期間が進行を開始すると解するのが相当である。
もっとも、このように解しても、本来の申立期間内になされた分与の申立が訴訟の提起によって期間前の申立として不適法となるものでないことは、前記1で論じた本来の申立期間前になされた申立さえも終局的には適法と解することからみてもちろんであり、また、本来の申立期間徒過後相続権不存在の確定前なされた申立も前記1で述べたのと同様の理によって適法と扱うのが相当である。
3 以上によれば、本件においては分与の申立期間は、福島春子ら四名についての相続権の不存在が確定した昭和四八年九月一二日から進行を開始することになるところ、申立人福島三郎を除くその余の本件申立人の分与の申立は全て分与の申立期間の進行開始前の申立となって、結論的には2で述べたとおり、適法な申立に帰することになる。
第四、本件各申立に対する相続財産管理人の意見
相続財産管理人北山六郎の本件各申立に対する意見は、同人作成の別紙意見書(昭和五一年一月一二日付、同年三月一五日付)のとおりである。
第五、特別縁故者の範囲についての当裁判所の基本的立場
民法九五八条の三の規定に鑑みると、特別縁故者に対する分与の制度は、血縁関係を基幹とする相続の制度とは異なるものと考えられるので、縁故者に該当するか否かの判断は、主として申立人と被相続人との間における具体的、実質的な縁故の有無を基準とし、事案によっては、これに自然的血縁関係等をも加味して総合的に判断すべきものであって、単なる親族としての自然的血縁関係の存在のみをもって、縁故関係を肯定するのは原則として相当でなく、唯、未認知の子などのように、形式的には相続権を有しないが、実質的には相続人に該当するような親族の場合には、例外的に自然的血縁関係の存在のみによって縁故関係を肯定するのも許されるものと考える。
なお、縁故者に該当するか否かについて、自然人と法人とを別異に扱うべき理由が存しないことはもちろんである。
以下、本件においてはこの基本的立場から各申立についての縁故の有無を検討する。
第六、本件各申立人が被相続人の特別縁故者に該当するか否かの判断
一、被相続人について
≪証拠省略≫によれば、以下の事実が認められる。
被相続人千葉一郎は明治九年六月四日大阪で竹の皮販売業を営む資産家の父千葉A男と母B女の長男として出生し(千葉家は古くは回船問屋を営んでいたようである)、大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学の前身)を卒業後、しばらく家業を継いだ後不動産業や金融業の方に転じ、第二次世界大戦後はもっぱら土地や家屋の賃貸業を営むようになったが、不動産管理について卓越した才能を示し、その結果、死亡時には後記のとおり、数一〇億をもの莫大な資産を有する大資産家であったが、いかなる理由によるのかは不明であるけれども、昭和四三年一〇月二七日満九二才の高令を全うしてその一生を終えるまで終生独身をとおし、女性関係はなく、またその生活ぶりは通常人のそれと比較しても大変質素なもので、第三者には倹約をとおりこして吝嗇と見える程で、まして自己の所有物を他人に与えるようなことはよほどの理由がない限り行わず、反面自己の権利の主張については相手方に対し厳しい態度をとったので、被相続人に対する世間一般の風評は必らずしも芳しいものばかりとはいえず、さらに、性格的には容易に人を信用しない、他人に対する不信感の強い人物であったため、同人をいわば変人とみなす人も多かったようであるが、一方東洋思想、考古学、日本画、和歌、俳句、漢詩等に通じる幅広い教養を身につけているうえ(特に漢詩には熱心で遺稿集も存する)、学校教育、殊に女子の教育については独自の考えを有していて、情熱をもやし、現に昭和六年から死亡時まで本件申立人の○○学院を経営し、あるいはその理事長として同学院の発展に尽力してきた。
ところで、被相続人は、殊に晩年においては、肉親のことを話題にすることはなく、また親類との付合いも殆んどなく、親類の中で被相続人と交際らしい交際を行っていたのは、わずかに本件申立人の千葉二郎一家および福島春子ら四姉妹にすぎなかった。
なお、被相続人は、死後の相続財産の処分方について、周囲の者から遺言をすすめられていたけれども、結局遺言をすることなく、また遺言に類似する如き、相続財産の処分についての明確な意思表示はしないままであった。
二、被相続人と血縁関係を有すると主張する申立人らと被相続人との身分関係は、同申立人らについて後記認定したところによれば、別紙身分関係図記載のとおりである。
三、各申立人についての判断
1 申立人福島三郎
イ、≪証拠省略≫を総合すれば、被相続人の父千葉A男はB女と婚姻し、同女との間に被相続人を儲けたが、他方B女以外の女性福島C女とも関係があり(C女はA男のいわゆる妄)、同女との間に、被相続人の出生後、別紙身分関係図記載のとおり、申立人を儲けたこと、申立人は父A男の認知は受けていないこと、申立人は子供の頃被相続人と何回か会ったことがあるが、A男死亡後の明治四〇年三月二六日以後は被相続人と没交渉で、同人の存命中は同人の消息については一切知らず、一方被相続人も申立人の消息等については同様であったと思料されること、申立人は現在A男や被相続人および千葉家の祭祀は行っていないこと、以上の事実が認められる。
ロ、以上認定したところによれば、申立人は被相続人の異母弟で、同人と二親等血族の関係にあることが認められる。
したがって、申立人は、本来ならば配偶者および子らの直系卑属がいない被相続人の相続人であるが、父A男の認知を受けていないために、法的には相続権者になれないものである。
ところで、前記認定の事実から明らかなように、申立人と被相続人との間には格別の具体的、実質的な縁故関係は存在しないのであるけれども、前記第五で述べたように、申立人のように形式的(法的)には相続権を有しないけれども、実質的には相続人に該当する親族の場合には、右身分関係の存在のみによって被相続人との間の特別縁故関係を肯定しうるものと考えるので、申立人は被相続人の特別縁故者に該当するというべきである。
2 申立人千葉二郎
イ、≪証拠省略≫によれば、次の事実が認められる。
(1) 申立人と被相続人との身分関係は、別紙身分関係図記載のとおり、申立人の祖父先代D男と被相続人の母B女が兄妹なので五親等血族の関係であり、また、申立人および被相続人の各先祖の墓碑は大阪市天王寺区下寺町所在の法界寺の同一墓地内にあって、双方の墓碑にはいずれも「○○屋」の屋号が刻んであり、さらに、双方の家は明治一五年頃共に竹の皮商を営んでいた。
(2) 申立人は昭和九年一月二五日妻S女と婚姻し、同女との間に長男T男(昭和一一年一一月三日生)、長女U女(昭和一五年三月一日生)、二男V男(昭和一八年四月二七日生)を儲けたが、二男V男は昭和一九年七月二六日、妻S女は昭和二七年一〇月三〇日それぞれ死亡し、また長男T男は昭和四一年三月二九日、長女U女は昭和四三年三月二五日それぞれ婚姻して申立人と別居している。なお、申立人は昭和五〇年一〇月二五日後記8の申立人千葉(旧姓群馬)さつきと婚姻し、現在同女と同居し、生活している。
(3) 申立人の父D男は、被相続人の母B女が昭和四年二月八日死亡した後、被相続人の依頼で同人の不動産管理業務等の仕事の手伝いをするようになり、家賃の取立ならびに催促、銀行取引、家屋の修理、客の応待等を行い、手伝う代りに生活費を受け取っていたようであるが、両者の関係は通常の雇用関係ではなく、家族労働的なものであった。
(4) 申立人は昭和二年大阪外国語学校(現在の大阪外語大学)を卒業後、逓信省無線電信局嘱託を経て名古屋無線電信局に勤務していたが、父D男が昭和八年一〇月死亡した後、被相続人からD男同様被相続人の仕事を手伝うようにとの話があったので、名古屋無線電信局を退職して帰阪し、給料をもらって被相続人の税金の申告および納税の手続、家屋(貸家)の修理の監督、契約書の作成、株券の書換え等の業務を手伝うことになった。なお、その当時は申立人一家と被相続人は別居していた。
(5) 昭和一九年六月強制疎開により、申立人一家と被相続人はそれぞれ従前の住居から転居し、共に大阪市○○○区○○○町二一番地ないし二三番地の同一敷地(後記4の申立人福島春子らの現居住地)内の別棟の家屋で生活するようになったが、被相続人の日常生活の世話は、主に申立人の妻S女が行っていた。
(6) 昭和二〇年三月一三日の空襲で申立人一家および被相続人居住の上記家屋が焼燬したため、申立人一家と被相続人は神戸市○○区○○の被相続人所有家屋(現在は申立人が居住している)に転居し、以後被相続人の死亡時までいわば家族として同居生活を送るようになったが、家政はS女が担当し、申立人をはじめ、申立人家族において被相続人の身の回りの一切の世話を行っていた。なお、被相続人は申立人一家との同居後女中等を雇うようなことはせず、被相続人が病弱になった昭和四一年六月に至ってはじめて家政婦(後記8の申立人千葉さつきとは別人)を雇うようになった。
(7) 申立人は被相続人との同居後も従前同様同人の業務の手伝いをしていたが、被相続人は同居後は申立人に給料を支給せず、その代りに申立人一家の生活費一切を支出して申立人やその家族を扶養することになり、申立人一家は被相続人から必要に応じて三日毎あるいは一週間毎に少しづつ被相続人の分も含めた生活費をもらって生活をしてきた。
(8) S女が昭和二六年五月頃発病(乳癌)したため、その入院中は同人の母が家政を担当してくれたが、S女が死亡した昭和二七年一〇月以後は申立人、T男、U女において共同して家政を担当するようになり、たとえば、日常生活の買物は、昭和二七年から三七年頃までは申立人が、それ以後四三年頃まではU女(前記のとおり、U女は昭和四三年婚姻により申立人と別居)がしていたが、T男やU女は学生だったので、申立人が朝食、昼食の準備をした他、うどんが好物であった被相続人のために、S女死亡後一〇年間にわたって、毎朝市場にうどんの玉を買いに行った。
(9) 申立人は山梨五郎(後記3の承継前申立人)が昭和三五年八月被相続人に雇用されるまで前(4)記載のように、被相続人の納税の申告および納付、預金の出し入れ、貸家の修繕、家賃、地代の集金(約六〇軒分)、土地の境界線の紛争の処理等の被相続人の財産管理関係の業務一切を行っていたが、山梨五郎の雇用後は、主として不動産の管理に関する仕事は同人が担当することになったので、広く被相続人の業務全般についての相談相手をつとめ、また、後記5の申立人である○○学院の専務理事(申立人は昭和一〇年頃から同学院の事務の仕事も手伝うようになり、昭和二六年三月一日同学院が学校法人に組織変更後専務理事に就任した)として理事長たる被相続人を補佐し、さらに、被相続人と山梨五郎との仕事上の連絡の仲介役をもつとめる他、冠婚葬祭の場合に被相続人の代理として出席したり、寺の総代(被相続人の家は被相続人の祖父の代からその菩提寺である前記法界寺の壇家総代をつとめていた)をしている被相続人の代理もつとめたり、あるいはその先祖の墓参りを行う等広く被相続人の公私全般にわたって被相続人を補佐し、手助けしてきた。
(10) 申立人の家庭の重要な事項の決定は大部分被相続人との相談のもとに行われ、特に、入学、入院、結婚、葬儀等は被相続人の指示によってなされてきた。
(11) 被相続人はT男、U女、V男の命名者で、特にV男については自己の名前の一字をとって命名したものであり、またT男のことを第三者に自慢しており(同人は現在○○○○大学教授兼○○大学講師)、同人の結婚式にも健康状態が許したので出席し、さらに、同人が仕事の関係で京都での生活を希望した際に、同人のために同人の現住家屋および敷地を購入し、無償で居住させていた。
(12) 申立人は、S女の死後再婚の意思を有し、具体的な候補者までいたこともあったけれども、被相続人がそもそも申立人の再婚には反対であったために、結局被相続人の存命中には再婚をすることはできなかった。また、申立人は被相続人の存命中は宿泊を要する旅行をしたこともなかった。
(13) 申立人の被相続人に接する態度は、第三者からみて、実の子が親へ尽くす以上のものがあると感じさせる程のものであり、一方申立人はそのように被相続人に尽していることについて、第三者に格別不平不満を述べるようなことはなかった。
(14) 被相続人の葬儀の際は、申立人が親族代表となり(喪主はいなかった)、また被相続人の祭祀、回向は申立人において行っている。
ロ、以上認定したところによれば、もともと申立人の先祖と被相続人の先祖は密接な関係にあったことが窺われ、申立人の父D男と被相続人とは従兄弟同志、申立人と被相続人とは五親等血族の関係にあるところから、D男と申立人は共に被相続人の依頼で同人の仕事の手助けをするようになったものであり、その期間は両名で約四〇年、申立人のみでも約三五年の長きにのぼるものであるうえ、申立人は勤務先を退職し、自己の人生の進路を大幅に変更して被相続人を補佐することになり、その結果、人生の大半を被相続人のために尽して同人の財産の形成、維持に大いに協力、寄与し、殊に昭和二〇年以降被相続人死亡までの二三年余の間は被相続人と同居し、その間無報酬で、しかも自己の置かれた境遇に不平不満をいうこともなく、被相続人に忠実、献身的に仕えたのみならず、被相続人の反対で再婚の意思までも放棄する等被相続人への尽し方は正に自己犠牲的なものであったといえるものであり、言葉を換えると、申立人はいわばその一生を被相続人によって支配され、決定されたといっても過言ではない。
しかも、被相続人との同居期間中は、申立人は自己および家族の生活費、学資等一切の費用を被相続人から支出してもらって扶養され、生計を同一にしてきたものであり、以上の事実から判断すれば、申立人は被相続人と特別縁故の関係にあるとみるのが相当である。
3 申立人山梨六郎、和歌山種子、同広島咲子
イ、≪証拠省略≫を総合すれば、以下の事実が認められる。
(1) 承継前申立人山梨五郎(以下単に五郎という)は被相続人の事実上の雇問弁護士といえる岡本拓の紹介で昭和三五年八月八日いわば被相続人の秘書の形で同人に雇用され、同人の不動産に関する業務に従事することとなり、以後被相続人死亡時まで勤務したが、勤務時間は原則として午前九時から午後五時までであり、通常は被相続人方の執務室で執務した。なお、給料は当初は一万六、〇〇〇円、被相続人の死亡当時は約一〇万円であり、昇給は年二回、ボーナスは一応夏、冬支給されていた。
(2) 五郎は当初は不動産管理や不動産に関連した訴訟事務の補助的な仕事に従事していたが、途中からは、被相続人の信頼を受け、それまで被相続人や千葉二郎が行っていた不動産に関する業務全般を任されるようになり、賃料の集金および帳簿への記載、不動産の現状の監視、賃貸借契約の締結ならびに変更、不法建築者や不法転貸者等の契約違反者との交渉、不良賃借人の整理、弁護士との法律相談および訴訟事件の連絡、税金の申告等の仕事を行うようになった。
(3) 五郎は誠実かつ真面目で、物事をきちんと処理する人物であり、仕事に対しても熱心なうえ、手堅く、命ぜられたことは着実に実行し、さらに事務処理能力にも秀れ、勤務態度は給料を支給されているから働くというのではなく、それ以上に勤勉に仕事を行った。その結果、たとえば、五郎が被相続人に雇用された当時の賃借人の延滞賃料額は多額にのぼり、昭和三六年二月末日時点では約四〇〇万円もあったが、五郎が不良賃借人の整理に努力した結果、被相続人死亡時には延滞額も前記の五分の一以下にまで減少し、また一〇件程あった不法占拠事件も昭和四〇年迄には全て解決した。
(4) そのため、被相続人は五郎の仕事ぶりには十分満足し、元来人を信じない被相続人が五郎には絶大な信用を置き、信頼し切っていた。
(5) 一方、五郎も被相続人の信頼に応えて後半生の余力を同人のために傾注し、また同人に対する世間一般の風評は必らずしも良くはなく、同人を理解しうる人物は殆んどいなかったといってもよいような状態であったが、五郎は精神的にも同人と相通じるところがあり、同人を真に理解し、心服していたもので、また、五郎が小冊子「仏前に額づいて」を発刊したことは五郎の被相続人に対する敬慕の念がなみなみならぬものであったことを推測させるに十分であり、その内容をみると、五郎と被相続人との関係が単に雇主と被用者との関係にとどまらず、両名の間にはそれ以上の堅い絆があったことが窺われる。
(6) 被相続人と五郎との関係が単なる使用者と被用者との関係にとどまらず、また、被相続人の五郎に対する信頼の深さを示す一例として、被相続人は死期が近付いた昭和四三年一〇月一日五郎を病床近く呼び寄せ、被相続人死亡後の相続財産の取扱いについて質問し、五郎から相続人不存在の場合の法的な処置について一応の説明を受けると、大変満足気な態度を示し、後はよろしく頼む旨述べた事実がある。
(7) 五郎は被相続人の本葬を営む際にも種々尽力し、なお、被相続人死亡後は本件相続財産管理人に雇用され、管理人の管理事務の補助的業務に従事していたが、本件申立後の昭和四八年一一月一三日死亡したので、同人の相続人である山梨六郎、和歌山種子、山梨咲子(復氏後の氏広島)がその地位を承継した。
なお、五郎の相続人である山梨六郎ら三名に対しては、相続財産管理人から、裁判所の許可を得たうえで、五郎の死亡退職金として、総額四〇〇万円が支給された。
ロ、右に認定したところによれば、承継前申立人である五郎は本件申立後死亡しているから、まず同人の相続人によるその地位の承継が認められるか否かについて検討の必要がある。
相続財産分与制度の本質を恩恵的なものとみる立場から、特別縁故者として分与を受けうる権利は行使上も帰属上も一身専属的なもので、この理は申立の有無によって何ら影響を受けるものではないとする見解も一応理解できないものではないけれども、申立人が申立前に死亡した場合は別にして、申立後に死亡した場合については、申立がなされたことによって申立人の地位は、審判によって現実に分与を受けることを期待しうる権利にまで具体化され、高められたものと解することも十分可能なのであるから、この申立人の地位というものは相続の対象となりうるものであり、したがって、申立人が申立後に死亡した場合は、その相続人が右地位を承継しうるものと解するのを相当とする。
特に、本件においては、前記第三の一で述べたように、福島春子らが相続権確認訴訟を提起した関係で、本件の審理の進行については、右訴訟事件の確定を待っていたことおよび申立人が三〇名近いという多人数であり、かつ特定の申立人の縁故の有無の判断について鑑定が必要であったこと等の、承継前申立人に関係のない事由によって本件の審理が長びいたという本件の特殊事情を考えると、前記結論は公平の観点からみても妥当なものと思われる。
ハ、ところで、前記イで認定したところによれば、五郎は被相続人から正当な報酬を受けて同人に雇用されていたものであるところ、五郎のように、正当な報酬を得て稼働していた者は、特別の事情がない限りは民法九五八の三にいう特別縁故者とはいえないけれども、対価としての報酬以上に勤勉に稼働し、被相続人のために尽した場合には、特別の事情がある場合に該当し、特別縁故者に該当すると解するのが相当である。
これを五郎についてみるに、前記イで認定したところによれば、五郎は八年以上もの間被相続人の許で誠実かつ勤勉、また真面目に稼働し、全精力を傾注して被相続人のために尽し、仕事のうえでも秀れた実績をあげるとともに、真に被相続人を理解しえた人物と思われ、そのため、なかなか人を信頼しない被相続人も五郎に対しては全面的な信頼感を抱いていたものであって、五郎と被相続人との間には単なる雇用契約の当事者の立場をこえた人間的な結びつきがみられるのであり、前記認定した五郎の報酬額から考えて、五郎は報酬以上に被相続人のために尽したもので、五郎については、前記特別の事情があるとみるのが相当である。
ニ、以上によれば、五郎は被相続人と特別縁故者の関係にあり、申立人山梨六郎ら三名は五郎の右特別縁故者としての地位を適法に承継したものであるから、申立人三名に本件相続財産中から相当な額(五郎が生存していたならば、同人に分与するのを相当と解される額と同額)を分与するのが相当である。
4 申立人福島春子、同福島夏子、同福島秋子、同福島冬子
イ、申立人らは被相続人との身分関係について、戸籍の記載では申立人らの母E女の父は千葉D男、母は不詳となっているが、真実はE女は被相続人の母B女の子であり、したがって、申立人らは被相続人の代襲相続権者である旨主張するので、最初に、申立人らと被相続人との身分関係について検討する。
申立人らは調査の際、神戸家庭裁判所調査官小松宣雄に対し、申立人らの母E女は被相続人の母B女と○○寺の住職愛知W男との間に出生したもので、したがって、被相続人の異父妹である旨陳述し、また昭和四五年(家)第四九六号ないし第四九九号事件記録に資料として添付されている神戸地方裁判所昭和四五年(ワ)第三一二号相続権確認、所有権移転登記手続請求事件の記録中には申立人らの主張に符合する資料も存するようではあるけれども、右訴訟事件の判決が指摘するとおり、申立人らの陳述や右資料のみによっては申立人らの主張を認めるには十分ではなく、かつ右陳述等以外の本件全資料によるも、申立人らの主張事実は認め難いし、また戸籍記載の身分関係と異なる事実は見出せないので、結局、申立人らと被相続人との身分関係は、戸籍記載のとおり、申立人らの母E女の父先代D男と被相続人の母B女が兄弟であるので(別紙身分関係図参照)、申立人らは被相続人と五親等血族の関係にあるものと認められる。
ロ、次に、申立人らと被相続人との間に具体的、実質的な縁故の事由があるか否かについて判断する。
≪証拠省略≫を総合すれば、
(1) 前記イで述べたとおり、申立人らの母E女と被相続人とは従兄妹である関係から、申立人らの父福島G男、母E女と被相続人との間においては親戚付合がなされていた。
(2) 申立人らが現在居住している大阪市○○○区○○○町の土地のうち、二〇番ないし二三番の土地は元申立人らの祖父福島F男の所有地だったので、申立人らは父母の代から同地に居住し生活していたが、G男は被相続人からの借受金の返済ができなかったために、競売により、被相続人が昭和九年同地を取得したものであり、また同所二四番の土地は、被相続人が昭和二八年五月一五日九應寺から買受け、取得したものである。
(3) 被相続人は前記土地の所有権取得後も申立人ら家族に対し、「税金は自分が支払うから、引続き同地に居住して土地の番をしてくれ」といって、無料で申立人ら家族を従前同様同地に居住させていた。
(4) 被相続人は、G男死亡(昭和二〇年三月二八日没)後は必要に応じて申立人ら家族の生活を援助すようになり、またE女死亡(昭和三〇年一二月一八日没)後は不定期的ではあるけれども、従前より一層手助けするようになったが、さらに、自己の死亡一、二年前からは生活費として毎月二万円を申立人らに支給して、その生活を援助するようになった。
(5) G男とE女の葬儀費用は全て被相続人において負担した。
(6) 申立人ら四名はいずれも独身で(冬子のみ事実上の結婚歴有)、申立人福島冬子の賃金収入および申立人福島秋子の洋裁の内職等の収入で生活をしているので、被相続人は申立人らの将来を案じ、生前身近な者に、申立人ら四名には持参金をつけてもよいから適当な配偶者を見つけるようにとか、あるいは申立人らに教育を受けさせて同人らが生活に困らないようにきちんとさせていたらよかったと語っていた。
(7) 被相続人は大阪へ出かけた際には申立人らの家に立寄っていた。
以上の事実が認められる。
ハ、以上認定したところによれば、申立人ら四姉妹は被相続人の五親等血族であり、かつ被相続人は生活力の乏しい申立人らのことを心配し、申立人らの両親の存命中からその生活を援助し、殊に自己が死亡する一、二年前からは、金額的には決して高額ではないが、一応毎月定額の生活費を支給するようにまでなったうえ、申立人らの居住する土地(但し、二四番は除く)は元申立人らの祖父の所有であり、かつ同地が被相続人の所有になるについては認定したような特殊な事情があったにはせよ、申立人ら家族を長年にわたって無料で同所に居住させ(実質的には同土地の管理を委任していた形である)、さらに、申立人らの将来を案じ、その生活の安定を計ってあげたいとまで考えていたことが認められるのであって、前記第六の一で指摘した被相続人の性格および親戚付合の少なさ等を考えると、申立人らと被相続人との関係は、たとえ被相続人が一方的に申立人らを援助し、同人らに恩恵を与えた関係だったとはいえ、通常の親戚付合の範囲をこえたもので、特別な縁故関係を有するものとみるのが相当である。
よって、申立人らは被相続人の特別縁故者に該当するものというべきである。
5 申立人学校法人○○学院
イ、≪証拠省略≫によれば、次の事実が認められる。
(1) 申立人学校の前身である○○高等女学校は大正一〇年大阪日蓮宗寺院団によって開校されたものであり、資金難に陥った際に、被相続人から融資を受たことから同人との関係を生じるようになったが、その後同人からの借入金の返済ができなくなり、学校の存廃が問題となった際、被相続人が廃校ということになれば生徒が可哀想だといって、学校そのものを引継ぎ、その経営にあたることになったが(昭和六年六月)、実際に校主(当時の用例で学校の個人所有者を指す)として活動するようになったのは昭和八、九年頃で、本格的に活動を始めるようになったのは昭和一〇年であった。
申立人学校はその後昭和二〇年六月八日財団法人組織になり、昭和二四年四月一日○○学院に改称し、昭和二六年三月一日学校法人になり現在に至っているが、被相続人は申立人学校の組織が財団法人になった前記時点から申立人学校の理事長に就任し、以後死亡時までその職にあった。なお、申立人学校は高等学校の他に中学校を存置していた時もあったが、現在は高等学校のみである。
(2) 申立人学校は昭和五一年三月一日現在で、生徒数一五八四名、役員数(理事、監事、評議員)二六名、専任教員六八名、非常勤講師二三名、事務職員八名、校務員八名を擁し、また大正一五年からの卒業生は約一万六、〇〇〇名になる。
(3) 被相続人は申立人学校に対し、理事長に就任した際校舎全部を、さらに昭和三八年一一月二二日校地約三、四〇〇坪をそれぞれ寄付したが、校地を寄付した際、大阪市○○○区○○○×丁目二五番地の溜池(現況は宅地)約三九〇平方メートルも実質的には寄付したのであるが、右土地については登記の名義変は未だなされていない。
(4) 被相続人が申立人学校の経営にあたるようになって以後申立人学校の財政は堅実になり、また教育方針も堅実を眼目とした。
ところで、被相続人は、申立人学校の教育内容については、校長等に一任していたが、いわゆる「女大学」にあらわれるような女性を理想の女性と考えており、このような女性を育成することを理想としていたので、自己の教育理念の実践ということから申立人学校に対し非常な熱意と愛着を有しており、そのため頻繁に申立人学校に赴いて生徒に訓示をしたり、あるいは学校の行事等については積極的に関与して細かく指示し、たとえば、藤原家隆忌や芭蕉忌を学校の行事に取り入れ、また昭和一〇年から一六年までは現在別件申立人千葉二郎が居住している家屋を申立人学校の林間学舎として使用させたり、さらに他の学校が余り行っていなかった満洲への修学旅行も実行していた。このように、申立人学校独得の教育行事は被相続人の創意に基くものが多い。
(5) 被被相続人は生前申立人学校に短期大学を設置する考えを有しており、昭和三八、三九年頃に具体性を帯びてきたので、申立人学校も被相続人の考えに基き、当初は昭和四一年度に設置の予定をたて、昭和四〇年に大阪府へ大学設置願を提出した。そして、被相続人が昭和四〇年四月の申立人学校の理事会で、大学設立の時期が遅れた旨発言して促進方への意欲を示したので、申立人学校は右日時以後校地の物色を始め、現に被相続人自らも専務理事の千葉二郎らと共に東大阪市の枚岡、和泉市信太山等約五ヶ所に校地の物色に赴き、昭和四一年一一月には契約成立寸前まで話がまとまりかけていたけれども、その頃朝陽が丘高校事件(同校は私立学校であるが、昭和四一年生徒数の減少等が原因で廃校になった)が起こったため、被相続人の気持が変り、「未だ日本の経済は安定していないので、日本経済が立直った際には、自分の死後でもよいから設置するように」といって、一応大学設置計画は延期されることになった。
(6) 被相続人は昭和四二年五月母校の大阪市立大学へ土地(当時の価額で約一〇億円相当のもの)を寄付したが、これに関連して、当時の申立人学校の校長だった島根X男が被相続人に対し、「今度は○○学院の大学のために」と話したところ、被相続人、「それはわかっている」旨返答した。
ロ、以上認定したところによれば、被相続人は昭和六年六月から死亡時まで約三七年間名実共に申立人学校の経営者ないし代表者としてその発展に大いに努力し、自己の私財を投じて申立人学校の財政的な基盤の確立に努める一方、積極的に申立人学校の指導理念や行事等にも関与し、また晩年には申立人学校に短期大学を設置する計画を有してその実現のため自ら校地の物色をする等情熱をもやしていたことが認められるのであって、これらの事実からみて、いかに被相続人が申立人学校のことを心にかけ、その発展を願っていたかは明らかであり、正に被相続人あっての申立人学校といえるのであり、したがって、この両者の関係から判断すれば、申立人学校は被相続人と特別縁故の関係にあるとみるのが相当である。
6 申立人長野七郎
イ、最初に、申立人と被相続人との身分関係につき検討する。
申立人は、別紙身分関係図記載の申立人の祖父三代目長野H男(J男)と被相続人の父千葉A男は兄弟であり、したがって、申立人と被相続人とは五親等の血族である旨主張し、また調査、審問の際には、理由は主張の際のそれとは異なるけれども、結論的には同じく被相続人と五親等血族の関係にある旨述べている。
ところで、被相続人の父A男が申立人の属する長野家の出身で、千葉家へ養子にいってA男を襲名したものであることは、本件各記録に照らし明らかである。
問題は、被相続人の父A男が別紙身分関係図記載の誰といかなる続柄にあるのか、さらに具体的にいえば、初代、二代目および三代目の長野H男といかなる続柄にあるのかという点であるが、この点を明確にする戸籍はなく、また申立人をはじめ関係者の供述も一致しない。
しかしながら、≪証拠省略≫を総合すれば、前記A男が長野家の誰といかなる続柄にあるのかとの点についてはなお明確に断定することは困難ではあるけれども、少なくとも、前記A男は、申立人の主張とは異なり、別紙身分関係図記載の二代目長野H男(申立人の曾祖父)と同一の代に属するものとみるのが相当である。
したがって、申立人と被相続人とは、申立人が主張するような五親等親族の関係ではなく、六親等親族の関係にあるものと認められる。
ロ、申立人の主張する特別縁故の理由の第一点は、被相続人との身分関係を前提として、申立人を被相続人の養子とする旨の養子縁組の予約があり、申立人は実質的に被相続人の後継者であるというものであるが、右の主張を肯定する資料としては、調査および審問の際における申立人の供述しか存しないところ、右供述は、≪証拠省略≫に照らすと、にわかには信用し難く、他に申立人の主張に符合するべき資料は何もない。
したがって、申立人主張の養子縁組の予約があり、申立人は被相続人の実質的な後継者であるとの事実は認め難い。
ハ、進んで、申立人と被相続人との間において、特別縁故関係が肯定されうるような具体的、実質的な関係があったか否かについて検討するに、≪証拠省略≫によれば、申立人と被相続人との間においては、数回の面接(それも大半は申立人が希望したもの)が行われた程度であって、格別の交際というべきものはなかったことが認められる。
したがって、申立人と被相続人との直接の関係のみからは、申立人が被相続人と特別縁故の関係にあると認められないことは明らかである。
しかしながら、申立人と被相続人との関係からは、特別縁故関係が認められなくても、右関係に、申立人の先代らと被相続人との関係を付加して総合的に判断した場合には、特別縁故関係の存在を肯定しうる場合もありうると思料されるので、次に、申立人の先代らと被相続人との関係について検討する(申立人の先代らと被相続人との関係を申立人と被相続人との特別縁故関係の判断の資料になしうるかとの点については、積極に解する)。
申立人および山口花子、長野八郎、熊本菊子、長野Y女はそれぞれ調査や審問の際に、長野家はもともと塩卸売商と両替商を営み、一方千葉家は竹の皮問屋を営んでいて、両家は従前から商売上の付合があったが、申立人の祖父三代目H男は被相続人の父A男の所で奉公していて、同人の世話で長野家の養子になったもので、その関係等から被相続人のことを心にかけていて、被相続人が幼い頃から同人を可愛いがり、たとえば、仕事の関係で大阪の中央市場へ行った時には同人の所へ寄って同人に美味しい物を食べさせたり、同人が三代目H男方を訪れた時にも妻のL女が同様の扱いをし、また被相続人とL女の妹O女を結婚させる世話をしたり(これは被相続人の母B女の反対で実現しなかった)、被相続人に養子を迎える世話をする等し、一方被相続人も三代目H男には親密感を抱き、度々同人方を訪れ、また同人の話は親の話よりもよくきくという態度で、二人は親子のように親しくしていたものであり、さらに、三代目H男は当初は海産物卸商を営んでいたが、四〇才位からは不動産周旋業を営むようになり、売りに出された不動産がある場合には、被相続人に連絡する等して商売上の付合もあった、また、被相続人の父A男の墓はその死後大阪の法界寺に建立されていたが、B女がその供養を行わないので、三代目H男はA男の遺骨を分骨のうえ、新たに同人の墓碑を長野家の墓碑がある西宮の海清寺に建立して同人の供養を行ったが、被相続人もこのことを感謝していた、なお、現在は長野八郎らが墓参りなどをして、同人の供養を行っている、被相続人は申立人の父I男とも懇意にしていて、第二次世界大戦前には時々I男方を訪れ、I男も被相続人方を訪れていたけれども、I男の死後は申立人の母Y女が被相続人と交際し、Y女は昭和三〇年頃被相続人方を訪問したこともある、三代目H男やL女の死亡の際には被相続人も来訪し、その死を悼んでくれた、被相続人は自己の財産については死後に親戚に分ける旨、あるいは長野家以外には親戚はいないから、財産については配慮している旨語っていた、以上のように陳述して、三代目H男やI男らと被相続人とが極めて親密な交際を行っていたと強調する。
これに対し、山梨五郎は神戸家庭裁判所調査官坂下昇の調査の際、被相続人は常々親戚はないと話しており、被相続人に遺言をすすめたが、とりあってくれず、また被相続人から相続人がいない場合の相続財産の取扱いについて質問を受けたので、一応の法的説明をした旨陳述し、千葉二郎は前記坂下調査官の調査の際、期間については昭和九年頃から被相続人死亡時までと一応の限定をしながらも、右期間中被相続人の親戚付合は皆無といっていいものであり、殊に、父方実家である長野家に対しては冷淡であった旨、また神戸家庭裁判所調査官山口忠保の調査および本件審問(昭和五〇年五月三〇日実施のもの)の際には、被相続人は長野家のことに関してはいい顔をせず、親戚ではないようなことをいっていて、同家の者に会うのを嫌っていたし、被相続人の日記には長野家についてのことは格別記されておらず、さらに長野家の者に財産を与えるという意向は持っていなかった、三代目H男は大阪の被相続人方へ二回程尋ねてきたことがあるにすぎない旨それぞれ陳述し、群馬さつきは山口調査官の調査の際、被相続人は長野家のことについては何も話しておらず、千葉二郎と福島春子ら四姉妹以外には親戚はない旨話していたと陳述し、いずれも前記申立人らの陳述とは異なる陳述をしている。
思うに、被相続人の父A男が長野家の出身であることは前記イ認定のとおりであり、また≪証拠省略≫によれば、申立人らの陳述どおり、三代目H男が長野家の墓地内に前記A男の墓碑を建立している事実が認められること、≪証拠省略≫によれば、昭和三〇年度の被相続人の日記中、同年七月八日付の分に、山口花子が金銭的な助力を求めてきたので多少の援助をした旨の、同年九月二一日付の分に、三代目H男の妹O女(別紙身分関係図参照)の死去に際し、香典を供えた旨の各記載があることおよび三代目H男は被相続人より約一〇才年長であること(別紙身分関係図参照)等から考えると、三代目H男と被相続人との間においては交際が行われ、年長者である三代目H男は、被相続人が一定の年令に達するまではある程度被相続人の相談相手となり、同人に助言等を行っていたであろうことは一応推測しうるところである。
しかしながら、一方前記1の申立人福島三郎のところで認定したように、A男が妻B女以外の女性と関係を持っていたことは事実であるから、このことから被相続人がA男のことをあるいは快く思わず、ひいては同人の出身の長野家に対しても好感情を抱かないようになったことも考えられうることであり、また前記第六の一で述べたように、被相続人はもともと親戚付合は少なかったものであり、右事実に、申立人の父I男との交際は、その内容等が申立人らの陳述どおりとしても通常の親戚付合の範囲内のものと認められること、前記認定の如く、申立人との間には殆んど交際らしきものはなく、さらに、後記9の申立人山口花子、長野八郎のところで認定するように、三代目H男の子供の山口花子らとも格別の交際はなく、同人らに対しても殆んど関心を示さなかったこと、前記第六の一で認定したように、被相続人は自己の所有物を人に与えるということを簡単には行わない人物であり、遺言についての知識は有していながらあえて遺言をしなかったと思料されること、三代目H男がA男の墓碑を建立したのも、右両名の関係が申立人長野八郎の陳述どおりであるならば、被相続人との関係によるものというよりは、むしろA男との関係を重くみた結果によるものではないかとも考えられること等を併せ考えると、三代目H男と被相続人との交際の程度、内容は、申立人らの陳述にあるような格別の親しさを有していたものであったといえるかは疑問であり、結局のところ、通常の親戚付合の範囲内のものでなかったかと推測され、また、申立人の父I男と被相続人との交際が通常の親戚付合の域をこえないものとみるべきことは前述のとおりである。
以上によれば、結局申立人と被相続人との関係に、申立人らの祖父三代目H男らと被相続人との関係を付加して総合的に判断しても、申立人が被相続人と特別縁故の関係にあるべき事情は見出せない。
ニ、よって、申立人の、被相続人と特別縁故の関係にあるとの主張は理由がないものといわねばならない。
7 申立人財団法人○○○○協会
イ、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 申立人協会は、昭和三年一二月模範農場の経営とこれによる近代的農業を志す青少年の育成、各種産業における中堅青年ならびに青年指導者の育成等を目的として創立されたものであるが(現在では、我が国の社会、経済の発展に寄与しうる心身共に健全な青少年の育成に資することを目的としている)、主な事業内容としては、青年研修大学、農村指導者研修会、農村青年の講習会等の各種研修会、講習会の開催等があり、これらの研修会等を通じて国内での農業に従事する農村青年等の育成に努める傍ら、海外農村研修会等も開いて青年技術者を広く海外(主としてブラジル)へも派遣しており、現在会員数は三万人近くを数え、また茨城県下に実習訓練所として利根研修所を有し、さらに毎月一回機関誌「アカツキ」を発刊して会員相互の連絡協調を図っていること、
(2) 申立人協会の創立当初は、協会の役員として、会長や理事、監事等の他に一〇名ないし二〇名という少数の評議員が置かれることになっていたところ、被相続人は創立後間もなく申立人協会から評議員への就任方を要請されたが、即答を避け、同協会の第二回全国中堅青年講習に参加し、三日間参加青年らと寝食を共にし、申立人協会の事業方針等を納得したうえで、昭和四年一一月評議員に就任し、以後死亡時まで約四〇年間評議員をつとめ、申立人協会と関係を有していたこと、
なお、その後の寄附行為の変更により、評議員は非役員となり、その数も昭和五〇年六月一一日時点で七四名と、創立当初に比べると、かなり増員されてはいるが、各都道府県の会員代表者ならびに協会の功労者、協力者、学識経験者から選任されて評議員会を組織し、その職務内容は、評議員会において役員たる理事、監事を選任し、また協会の重要事項を審議するというものであること、
(3) 申立人協会の寄付行為では、評議員会は創立当初から一貫して年二回以上開催しなければならないことになっているところ、被相続人は、身体的に評議員会への出席が可能であった昭和二〇年頃までは概ね大阪から上京して評議員会に出席し、また高令等の理由で出席が困難になった昭和二〇年頃以降も一応評議員会への委任状は提出していたこと、
(4) 被相続人は、申立人協会の創立以来精神的な面および経済的な面にわたって協会を援助し、支援していたので、たとえば、昭和七年一月発行された○○○○協会要覧(協会設立の経過、設立の趣意等を記載したもの)には、設立以来の協会に対する援助者九八名中に被相続人の氏名が記載されており、このように、申立人協会は創立当初から被相続人を協会の有力な支持者、理解者として考え、扱っており、一方、被相続人も協会の被相続人に対するこのような態度を承知し、是認していたこと、
(5) ところで、まず、協会の創立から昭和二〇年頃までの期間における被相続人の申立人協会に対する寄与の具体例は、財政的なものとして、昭和五年から昭和二〇年まで年額二五〇円の寄付を行ったこと、後記申立人協会本部会館建築資金等として、昭和七年四月一五日三〇〇円、昭和九年五月一一日三、〇〇〇円、同年一一月二八日二〇〇円、日時は不明であるが、本部会館建築工事期間中に二五〇円をそれぞれ寄付したこと、被相続人が本部会館建築委員長に就任していた頃に関西方面で寄付を集める際には、被相続人がその計画を立てて協会関係者を指図し、また寄付金集めに従事している協会関係者を同人方に宿泊させ、その分の宿泊費等を節約させる等して協力したこと等であり、財政的なもの以外では、申立人協会が昭和七年本部会館建設計画をたてた際、会館建築委員会委員長に就任し、会館が建築された昭和九年末まで建築委員長としてその建設に大いに尽力し、特に茶室の移築工事、庭園の造築の際には自ら約一週間工事現場に泊り込んで陣頭指揮をしたこと、昭和七年神戸の湊川神社で行われた協会の地方特別講演に出席して講演を行い、昭和九年一〇月協会本部で行われた研修会に参加し、昭和一三年京都ミヤコホテルで開催された鳥取協会会長を迎えての関西会員懇談会に出席して歓迎の辞を述べたこと、昭和一二年頃堺市に協会の大阪道場が建設された際には、その設計、管理にあたって道場の建設に努力したこと等があること、
(6) 被相続人は昭和二〇年頃以後においては、主として年令からくる健康上の理由から評議員会への出席あるいは申立人協会のために身体的な行動を伴う活動を行うことは困難になったが、機関誌「アカツキ」には昭和三〇年以降も時折漢詩等を投稿し、また、申立人協会の募金運動に協会関係者が来神した際には自宅に宿泊させ、さらに、昭和三六年二月二五日大阪において開催された申立人協会の関西大会には高令にもかかわらず来賓として出席し、講演を行っていること、第二次世界大戦後においては、被相続人は申立人協会に寄付を行ったことはないが、その理由は、主として、申立人協会が外部に寄付を求めることをせず、自給自足の方針をとったことによるものであり、また外部へ寄付を求めるようになった際も特定の会社関係者のみに限定していたので、被相続人からの寄付はなかったものと思われること、
(7) 被相続人は昭和三八年三月二〇日偶然にも約三〇年ぶりに本部会館建築委員長時代に協会関係者らと写した記念写真を発見した際、写真に「この写真本日発見旧交の感不堪、1/3の人士は皆故人ならんや」と自筆していること、
(8) 被相続人は申立人協会の創立当初から協会に対しては財力ではなく、精神面ならびに身体面で協力する考えであると述べていたが、その反面、前記認定の如く、必要と判断した場合には寄付を行っており、また被相続人の死亡一月程前に同人を見舞った申立人協会理事佐賀Z男が協会の基金となりうるような寄付の申出を行ったところ、被相続人は、健康が回復した時点でゆっくり話し合おうと述べて即答は避けたものの、否定的な態度は見せず、一応基金となりうるような内容の寄付については考えていた旨の発言を行って、佐賀理事を激励したこと、
(9) 昭和四三年一一月二七日行われた被相続人の本葬においては、当時の申立人協会会長茨城a夫が友人総代をつとめたが、同会長と被相続人は純粋に個人的な交際を行っていなかったので、これはあくまでも申立人協会と被相続人との約四〇年におよぶ関係に基くものであること、
ロ、以上認定したところによれば、被相続人は青少年の健全なる育成という申立人協会の設立趣旨、事業方針に賛同し、理解を示したうえで(なお、≪証拠省略≫によれば、被相続人は○○市青年団参与、○○青年団長をしていたということであるから、もともと青少年の育成については関心を持っていたものと推測される)、申立人協会の評議員という重要な役職に就任し(創立当初の評議員の地位が重要なものであったことは、評議員が役員とされ、またその数が少数であったことからも十分窺える)、死亡時まで約四〇年の長きにわたって右地位にあり、その間単に名誉職的な評議員の肩書を有するというのではなく、具体的に種々申立人協会のために尽力し、特に評議員に就任後昭和二〇年頃までの間においては、申立人協会の本部会館建設の際、建設委員長として、財政面でも(本部会館建設の際の寄付金額が三、〇〇〇円以上というのは、当時としては極めて高額なものである)、またそれ以外の面でも多大の貢献を行ったのをはじめとして、申立人協会のために大いに尽力、活動していることが認められ、さらに、本件全記録から窺えるところの、もともと他人との交際には慎重で、役職等に就くことを好まず(現に、被相続人は前記5の申立人○○学院の理事長および本申立人協会の評議員の他には、法人関係の役職等には一切就いていない)、寄付等も必らずしも積極的に行う方ではなかった被相続人の人柄、性格等を考えると、(≪証拠省略≫によれば、被相続人は理由のたたないお金は決して出さない人であったということである)、前記認定のように、被相続人が申立人協会のために種々尽力し、活動したということは、被相続人の申立人協会に対する理解、関心が並々ならぬものであったことを示すものと思料され、したがって、申立人協会が被相続人を有力な支持者、協力者と考えたであろうことは想像するに難くないところである。
もっとも、前記認定事実によれば、昭和二〇年頃以後においては、申立人協会と被相続人との具体的な関係はそれ以前に比べると減少し、また、寄付もなされていないけれども、寄付がなされなかったのは、前記認定のとおり、主として申立人協会の方針の変更に起因するものであり、また具体的な関係の減少の点についても、戦後の混乱期や被相続人の高令等による健康面の変化を考えると、一応無理からぬものとみられるうえ、被相続人は従前同様評議員の職にあって、また機関誌「アカツキ」へも投稿しており、さらに、約三〇年ぶりに本部会館建築委員長時代の記念写真を発見した際に、わざわざ自筆して往時を懐古している等の前記認定事実から推測すると、被相続人は昭和二〇年頃以後においても申立人協会に対し従前と変らぬ理解と関心を有していたとみることができ、以上に、前記認定のように、具体性はおびていなかったとはいえ、被相続人が死亡真近な時期に申立人協会に対する寄付を一応考えていたとみられる発言を行っていること等を総合して判断すれば、被相続人は申立人協会の評議員に就任以来死亡時まで一貫して申立人協会の設立趣旨、事業方針を理解、賛同し、申立人協会に関心を寄せていたとみられるのであって、以上の申立人協会と被相続人との関係から考えると、申立人協会は被相続人と特別縁故の関係にあるものと解するのが相当である。
8 申立人千葉(旧姓群馬)さつき
イ、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 申立人は昭和四一年七月一〇日頃から被相続人に付添看護婦として雇用され(申立人は昭和八年看護婦資格を得ている)、被相続人死亡時の昭和四三年一〇月二七日まで被相続人の看病を行い、当初は申立人に三人の子供がいることもあって、自宅から通っていたが、当時被相続人は老衰のため独りでは便所へも行けない状態で、夜間の看護を必要としたため、被相続人の依頼で約一週間後からは同人方に住込み、同人と同室に寝泊りして同人を看護するようになった。
(2) 申立人の仕事の内容は被相続人に食事を与え(固い食物はかみくだいて食べさせた)、薬を飲ませ、大小便の世話をし、新聞、郵便物、雑誌等を読み聞かせ、さらに、毎日風呂代りに被相続人の身体を拭いてあげること等であり、被相続人に求められて添い寝したこともあった。
(3) 申立人は朝は四時頃から被相続人に起こされ、夜中は尿の世話などのため八回から一〇回も起こされる状態で、常時被相続人に付添っていなければならず、そのため自宅には週に一回、それも時間にして僅か二時間位しか帰ることができず、また休暇をとることも一度としてなかった。
(4) 被相続人は、申立人が雇用されて約半年経過した頃からは寝たきりで寝返りもできない状態になったが、申立人の看護の結果死亡するまで床ずれは全くできなかった。
(5) 申立人の被相続人に対する看護ぶりは献身的なもので、誠心誠意被相続人の看護に努めており、一方気むずかしい性格の持主である被相続人も申立人の看護ぶり等については不満はなかったようで、現に第三者からは女性嫌いと思われていた被相続人が申立人に尿等の世話までさせていたということは申立人を気に入っていた証拠と推察され、また、被相続人の性格、病状、被相続人方の地理的条件等を考えると、申立人のように、二年以上も被相続人の看護や世話を行うということは誰にでも簡単にできることではないと思われた。
(6) 申立人の給料は当初は四万円、半年後から被相続人死亡時までは五万円であった。
(7) 申立人は被相続人の死亡後も同人方に留って家の管理等を行う一方、前記2の申立人千葉二郎と共に被相続人およびその先祖の祭祀、回向を行っており、また申立人千葉二郎のところで述べたように、昭和五〇年一〇月二五日同申立人と正武に婚姻した。
ロ、右に認定したところによれば、申立人は被相続人から正当な報酬を受けて同人の看護に努めていたものであることが認められるが、付添婦、看護婦などして正当な報酬を得て稼働していた者は特別の事情がない限りは民法九五八条の三にいう被相続人の療養看護に努めた者とはいえず、したがって、原則としては特別縁故者とは認められないが、対価としての報酬以上に献身的に被相続人の看護に尽した場合には特別の事情がある場合に該当し、例外的に特別縁故者に該当すると解すべきことは前記3の申立人山梨六郎らについて述べたのと同様である。
これを本申立人についてみるに、前記イで認定したところによれば、申立人は二年以上もの間連日誠心誠意被相続人の看護に努め、その看護ぶり、看護態度および申立人の報酬額からみて、対価として得ていた報酬以上に被相続人の看護に尽力したものであるといえるのであって、したがって、申立人には前記特別の事情があるとみるのが相当である。
以上によれば、申立人は被相続人の特別縁故者に該当するというべきである。
9 申立人山口花子、同長野八郎
イ、申立人両名の特別縁故関係の主張は、被相続人との身分関係を前提としているので、最初に申立人両名と被相続人との身分関係について検討する。
申立人両名の主張によれば、申立人両名の祖父二代目長野H男と被相続人の父千葉A男とは兄弟であるというものであり、一方調査、審問の際には、申立人両名の祖母b子とA男とは兄妹の関係にある旨陳述し、結論的には、いずれにせよ申立人両名と被相続人とは五親等親族の関係にあるというのである。
被相続人の父A男が二代目H男らといかなる続柄にあるかについて明確に断定しえないことは前記6の申立人長野七郎のところで述べたとおりであるが、その際認定したように、別紙身分関係図記載の申立人らの祖父二代目H男と被相続人の父A男とは、同一代に属するものとみられるので、結局、申立人両名と被相続人とは結論的には申立人両名の主張どおり、五親等親族の関係にあるものと考えられる。
ロ、申立人両名と被相続人との具体的、現実的な縁故の有無について検討するに、≪証拠省略≫によれば、申立人両名は幼児の頃父母に連れられて被相続人方へ行ったことがあること、申立人山口花子は小さい頃親の手伝いをよくしていたので、被相続人から誉められ、可愛いがられたものであり、また同申立人の夫c夫は第二次世界大戦後被相続人から就職の世話をしてもらったこと、c夫の病気の折(昭和三〇年七月)、同申立人は被相続人方を訪れ、同人から多少の金銭的援助を受けたこと、c夫の死亡の際には、被相続人は同申立人方を訪れ、また年忌の時には供養をしてくれたこと、同申立人は大阪の被相続人方を二回程、神戸市○○区○○の同人方を一回訪問したことがあり、また病気見舞の手紙を何回か出したことがあること、これに対し、被相続人は親戚の者に余り関心を示さない態度をとっていたため、同申立人からの病気見舞の手紙を見てもとりあわず、そのため、山梨五郎が代って返事を出したこと、一方、申立人長野八郎は、被相続人が大阪に居住していた頃同人方を二、三回尋ねたことがあり、右以外にも被相続人と何回か面接したことはあるようではあるが、常日頃は被相続人と格別の交際を行っていた様子はないことが認められる。
以上認定の事実によれば、申立人両名と被相続人との交際は単なる親族としての交際にすぎないものであり、また申立人両名の父三代目H男らと被相続人との交際の程度、内容も通常の親戚付合の範囲内のものと推測しうることは前記6の申立人長野七郎のところで論述したとおりであるから、結局、申立人両名と被相続人との関係に、三代目H男らと被相続人との関係を付加して総合的に判断しても、申立人両名が被相続人と特別縁故の関係にあるとは認め難い。
ハ、その他、申立人両名と被相続人とが特別縁故の関係にあると認むべき事由はない。
ニ、以上によれば、申立人両名の本件申立は理由がないといわねばならない。
10 申立人福井松子、同福岡夕介、同福島みのり、同福岡竹子
イ、≪証拠省略≫によれば、承継前申立人福岡朝男は本件申立後の昭和五〇年九月二四日死亡し、同人の相続人である申立人福井松子ら四名が受継の申立を行っていることが認められるところ、申立人が申立後に死亡した場合については、その相続人による承継を肯定するのを相当と解すべきことは前記3の申立人山梨六郎らのところで論述したとおりである。
ロ、承継前申立人福岡朝男(以下朝男という)が主張する特別縁故の理由は、要するに、朝男主張の被相続人との身分関係および生活交渉を前提として、被相続人が生前朝男に西宮市に所在する被相続人の所有地を贈与する旨約束していたので、遺言がなされていれば、当然右の土地は朝男に遺贈されていたものと思料されるので、同地の分与を求めるというのである。
そこで、最初に朝男と被相続人との身分関係につき、検討する。
朝男の主張によれば、別紙身分関係図記載の朝男の母O女と被相続人の父A男とは兄妹であるから、朝男と被相続人とは四親等の従兄弟の関係にあるというのであり、朝男の実妹である長崎梅子(昭和四六年(家)第一九三八号事件の申立人)も同様の主張をしているが、朝男自身被相続人との身分関係を正確に知っている訳ではなく、昭和四六年(家)第一九〇一号事件記録中の神戸家庭裁判所調査官坂下昇作成の調査報告書によれば、朝男は同調査官に対し、二代目長野H男とその先妻との間に出生した子が被相続人の父A男で、二代目H男と朝男の祖母b子との間に出生した子が朝男の母O女であり、したがって、A男とO女とは異母兄妹であるから、朝男および長崎梅子と被相続人は四親等の従兄弟(妹)の関係にある旨述べているが、他方、前記記録中の朝男作成の上申書(昭和五〇年五月二二日付)では、前記A男とb子とは兄姉の関係にあると主張している。
問題は、被相続人の父のA男が初代、二代目および三代目の長野H男の誰と同一の代に属するのかの点であるが、この点を明確に判明させる戸籍がないことは前述のとおりである。
しかしながら、前記6の申立人長野七郎のところで認定したように、前記A男は別紙身分関係図記載の二代目長野H男と同一の代に属すると考えられるので、結局、朝男と被相続人は五親等親族の関係にあるものと思われる。
ハ、ところで、≪証拠省略≫を総合すれば、朝男および長崎梅子の父福岡P男は酒樽の上に字を書く仕事や酒樽用菰の製造業をしていたが、被相続人は、P男の菰の製造業に共同出資するなどして、大正五年頃から同一〇年頃まで同人と商売上の付合があり、また大正一一年頃から昭和一〇年頃までは同人宅へ贈物などもしていたこと、P男は被相続人の所有地の一部を管理し、同地の税金の立替払いをしていたので、被相続人は時折同人方を訪問して御礼を述べており、一方P男の妻O女も時々被相続人方を訪れていたようであること、被相続人は昭和二〇年頃にはO女方の疎開荷物を預かってくれ、またP男とO女の葬儀には参列したこと、朝男と被相続人との間においては多少の交際はあったようで、朝男は何回か被相続人方を訪問したことがあり、被相続人の死亡の数年前には被相続人に年賀状を出したこともあること、しかし、被相続人は年賀状を受け取った際、朝男に対し格別の関心は示さなかったこと、以上の事実が認められる。
以上認定したところによれば、朝男と被相続人との交際は、朝男の両親と被相続人との交際の事実を併せ考えても、通常の親戚付合の範囲内のものであるとみるのが相当であり、したがって、以上の事実からは、朝男が被相続人と特別縁故の関係にあるような事情は見出せない。
ニ、そこで、最後に以上認定の朝男と被相続人の身分関係ならびに生活交渉等を前提として、被相続人が遺言をしたならば、朝男に対し遺贈の配慮をしたと推察しうるか否かの点について検討するに、朝男の主張に符合するものとしては朝男本人の供述しかないところ、右供述も、≪証拠省略≫に対比し、かつ前記認定の朝男と被相続人との生活交渉の内容、前記第六の一で認定した被相続人の性格等から考えると、にわかには措信し難く、また、他に朝男主張の事実を認むべき資料がない本件においては、被相続人が朝男に対し、朝男主張のような遺贈の配慮をしたであろうとは認め難い。
ホ、以上みてきたところによれば、朝男と被相続人との間、したがって、申立人福井松子ら四名と被相続人との間には特別縁故の関係は存在しないものというべきである。
11 申立人長崎梅子
イ、申立人と被相続人の身分関係は、前記10の申立人福井松子らのところで述べたように、五親等親族と考えられる。
ロ、申立人と被相続人との具体的な生活交渉について検討するに、申立人本人に対する調査、審問の結果によれば、申立人が昭和一五年頃阪神電鉄に入社する際、被相続人が申立人の保証人になってくれたこと、申立人は母O女の存命中は母や姉と被相続人方へ遊びに行ったことがあり、その際には被相続人から小遣いをもらったこともあり、また昭和二一年から二五年頃には株の投資の相談に行ったことがあることが認められるが、右認定の申立人と被相続人との交際は親族としての通常の交際にすぎず、また申立人の両親と被相続人との生活交渉も通常の親戚付合の範囲内のものであったことは前記10の申立人福井松子らのところでみたとおりであるから、結局、申立人と被相続人との具体的な生活交渉の事実からは、申立人が被相続人と特別縁故の関係にあるような事情は見出せない。
ハ、申立人は、被相続人が生前土地等を贈与する旨話していたと主張するが、右主張に符合するものとしては申立人本人の供述しかなく、右供述も前記10のニで述べたのと同様の理由でたやすく措信し難く、したがって、被相続人が申立人に対し、遺言をしたならば遺贈の配慮をしたとは考え難い。
ニ、以上みてきたところによれば、申立人と被相続人との間には、特別縁故の関係は存在しないといわねばならない。
12 申立人熊本菊子
イ、申立人と被相続人との身分関係は、前記6の申立人長野七郎のところで認定したとおり、別紙身分関係図記載の申立人の曾祖父二代目長野H男と被相続人の父千葉A男とが同一の代にあるものと考えられるので、結局六親等親族の関係にあるものと思われる。
ロ、申立人と被相続人との具体的、現実的な縁故関係の有無について調べるに、≪証拠省略≫によれば、申立人と被相続人との間には面識交際は全然なく、唯、申立人は申立人の母Q女が長野家の墓地内にある被相続人の父A男の墓参を欠かさないで、同人の供養を続けていたので、申立人も母の遺志を受け継いで同人の墓参を行っているとの事実が認められるのみである。
したがって、申立人と被相続人との右関係のみからは、特別縁故関係が認められないのは明らかであるが、申立人は、申立人と被相続人との関係に、申立人の母達と被相続人との関係を付加総合して、被相続人との特別縁故関係を主張しているものと解釈されるので、次に、申立人の母達と被相続人との具体的な生活交渉をみてみるに、≪証拠省略≫によれば、前記認定のとおり、申立人の母Q女はA男の墓参を欠かさないで、同人の供養を続けていたし、また被相続人の病気の際には見舞に行ったこともあることが認められるけれども、これらの行為が通常の親戚付合の範囲内のものであることは明白であるうえ、申立人の祖父三代目H男らと被相続人との関係が通常の親戚付合の域をこえないものであることは、前記6の申立人長野七郎のところで認定したとおりである。
したがって、申立人と被相続人との関係に申立人の母や祖父との関係を付加総合して判断しても、申立人が被相続人と特別縁故の関係にあるような事情は見出せない。
ハ、以上みてきたところによれば、申立人は、被相続人の特別縁故者には該当しないといわねばならない。
13 申立人宮崎十郎、同岩手陽子、同栃木月子、同山形星子、同宮崎十三郎、同秋田稲子、同徳島米子、同宮城笹子
イ、≪証拠省略≫によれば、申立人らが被相続人との特別縁故関係の理由として主張するところは、申立人らの祖父(一部の申立人らからみたら曾祖父)にあたる千葉R男(別紙身分関係図参照)は戸籍上被相続人の父千葉A男の養弟となっているが、この場合の養弟とは特別の養子縁組を意味するので、被相続人とR男はA男の実子と養子ということになり、したがって、本件ではR男は被相続人の相続人であるから、R男の代襲相続人である申立人らは、実質的には被相続人の相続権者であるというのである(なお、前記第二参照)。
ロ、≪証拠省略≫によれば、別紙身分関係図記載のとおり、申立人宮崎十郎、同岩手陽子の祖母e子(他の六名の申立人からみた曾祖母)は千葉R男と婚姻したが、両名の長女がd子であり、(e子とd子については、e′子およびd′子と記載した戸籍も存するが、e子とe′子、d子とd′子とはそれぞれ同一人物と解する)d子とその夫f夫との間に出生したのが申立人宮崎十郎、同岩手陽子および申立人宮崎十三郎らの父宮崎g夫であることが認められる。
ところで、昭和四八年(家)第八三三号事件記録中の戸主千葉R男の除籍謄本中の同人の身分事項欄には「石川h夫長男明治八年一一月一五日大阪府○区○○○町千葉A男養弟分家」と記載してあるので、次に、右「養弟」というものが当時法律的にいかなる意味を有していたのかとの点について検討する。
ハ、≪証拠省略≫によれば、以下の事実が認められる。
(1) 「養弟」という言葉は明治時代になってはじめて生じたものではなく、徳川時代において既にみられたものであること、
(2) 徳川時代における封建法上(封建法とは、庶民階級の間に適用された普通法とは異なり、武士階級に適用があったもの、中田薫著「法制史論集第一巻」中の徳川時代の養子法三七五頁以下参照)において「養弟」という言葉が使われる場合には、大別して以下の二つの場合があったこと、
第一の場合は、通常の養子縁組の成立によって発生するもので、養親となるべき者と養子となるべき者が養子縁組を結ぶと、縁組の目的が家督相続を目的とする場合であろうと、家督相続を目的としない場合であろうと、いずれの場合であっても養子と養父母との間には養親子関係を生ずるとともに、養子は原則として養家の実子(養子がいれば、養子、以下同じ)と同一の親族関係にたち、実子と養兄弟姉妹の関係になるが、この養親側の養兄弟姉妹の関係の一還として成立する養弟を意味するものであり(以下この場合の養弟を第一種の養弟と称する)、したがって、第一種の養弟は養親子関係の成立を媒介として成立するものであること、この場合、養子と実子との兄弟姉妹順は、まず実子が男子である場合は、実子が縁組時に出生していたか否かによって決定され、実子が縁組前に出生していたならば、実子は養子の兄、すなわち養兄となり、したがって、養子は養兄である実男子からみて養弟となり、実子が縁組後に出生したならば、養子の弟、すなわち養弟となり、したがって、養子は実子からみて養兄となり、次に、実子が女子である場合は年令順によって決定されたので、実子は養姉養妹、養子は養兄養弟となること、
したがって、結局、第一種の養弟は、実子からみて弟にあたる父母の養子を指す場合と、養子からみて弟にあたる養方(養家)の実子を指す場合の二つを含んでいること、
次に、第二の場合は、第一種の養弟が養親子関係の成立を媒介として生ずるのに対し、これと異なり、直接養兄になる者と養弟になる者との間で養兄弟関係を結ぶことによって発生するもので(養弟同様養妹も発生する)、その目的は扶養や家格調整、予備軍的な相続人の確保等にあり、その一部は養子(養妹の場合は養女)と重なるが、より広い内容を有するものであって(以下この場合の養弟を第二種の養弟と称する)、第一種の場合が兄弟姉妹になり切ってしまうのに対し、性格的には非常に曖昧なもので、子供的な要素も含んでいることは否定できないけれども、名称が示すとおり、兄弟関係の弟としての要素をより強く含んでいるものと理解されること、しかし、第二種の養弟は徳川封建法上元文元年八月二日禁止されたこと、
(3) 徳川時代の普通法における養弟について論じたものは見当らないが、封建法上の第一種、第二種の養弟の概念は、庶民階級においては第二種の養弟の目的が主として家計維持の点にあったものと推測しうる点を除けば、庶民階級の間においても事実上存在していたものと推測しうること、
(4) 明治維新後民法施行前においても、実子および養子の存否にかかわらず養子をすることができたが(但し、養親は原則として戸主であることが必要であった)、この場合にも徳川封建法の場合と同様、原則として養子は養家の親族に対し実子と同様の身分関係を生じたので、養家に実子あるいは養子がいる場合には養子はこれらの者と兄弟姉妹の関係にたち、その結果、第一種の養兄や養弟が生ずることになるが、この場合養兄になるか養弟になるかは徳川封建法の場合とは異なり、一応養子と実子(あるいは養子)との年令によって決定される場合が多かったこと、したがって、養子からみて養方(養家)の年下の実子は養弟となり、また実子からみて年令の下の養子は養弟ということになるが、戸籍上明確に養弟という呼称が現われるのは養子が戸主になった場合であること、但し婿養子の場合には、例外的に養子と実子(あるいは養子)との年令にかかわらず、姉妹の関係に対応して養兄弟となること、
(5) 第二種の養弟は前記(2)で述べた如く、徳川封建法において一旦禁止されたが、資料によれば、明治三年二月明治政府は第二種の養弟を許可しており(この場合、養兄には実子が存在している)、以後も華士族のみならず、平民についても第二種の養弟が認められてきたこと、なお、当時の第二種の養弟に関する太政官指令や内務省指令によれば、成立を認められた第二種の養弟には相続人の予備軍的なもの、家格調整のためのもの、家事経営の都合や家業の維持上なされたもの、幼年の者の後見的な目的でなされるもの等があり、一方第二種の養弟の性格、内容等については、指令中には養兄と養弟は服忌関係については通常の(第一種の)養兄弟関係と同じ定式に従う旨指示したものがあるので、この点から考えて、第二種の養弟の場合も認められた以上は、通常の養兄弟関係と同様であると思料されること、また第二種の養弟、養妹と年長養子とは機能上重なる面を有しており、さらに、二男の地位と第二種の養弟の地位は一定の近似性を有するものとみてよいこと等が資料から窺えること、
(6) 徳川封建法において享保三年に禁止された年長養子は、おそらく混乱期における家事経営上の都合を重視する見地から、明治時代に入ると認められるようになったが、この場合の呼称は、通常の養親が年長である場合の養親子関係の場合と同様であって、養親は養子より年下であっても養親であり、養子女は養親より年長であっても養子女であり、またその肩書は長男、長女と記載されるものであったこと、しかしながら、儒教的な倫理秩序が確立されるようになるにつれ、年長養子を認めることの疑問が生じ、遂に年長養子は明治一七年五月禁止されるに至ったが、生活単位としての家の維持のために一家の浮沈に関するときは先代の養子とし、戸主の相続人とする便法が適用されるようになったので、その場合に先代が戸主の父であったならば、相続人と戸主との間に養兄弟関係が生じ、相続人は養兄、戸主は養弟となり、この場合の養兄、養弟関係は形式的には第一種のものであるが、実質的には第二種のものであり、したがって年長養子の禁止は実質的には養兄を迎えることを許すことになったこと、
(7) 年長養子の禁止は第二種の養弟にも影響をおよぼし、まず明治一七年六月二五日の内務省指令で第二種の養兄姉が禁止され(第二種の養姉については既に明治六年一一月一八日の太政官指令で禁止されていた)、次いで明治一九年八月九日司法省の指令によって明確に第二種の養兄弟姉妹は禁止されたこと、
(8) ところで、第二種の養弟の場合、身分関係について確実にいえることは、養兄となる者と養弟となる者との間に養兄弟関係が生ずるということのみであって(この場合の法的性格が曖昧なものであることは前述のとおり)、養弟と養兄の親あるいは養兄の兄弟等との関係について断定することは困難であるけれども、たとえば養兄の親との関係については養親子関係が成立すると解する余地はありうること、したがって、この考えを推し進めていけば、第二種の養弟と養兄の実子との身分関係については、両者は叔父と甥の関係になると考えることが可能であること、
(9) 相続人の予備軍的な目的で迎えられた第二種の養弟は、相続権に関しては二男、三男等の傍系の男子と同じ立場にあると考えてよく、したがって、戸主に嫡長子孫がいる場合には原則として嫡長子孫が相続人となるから、あくまでも相続に関しては予備軍であるが、嫡長子孫がいないか、または病弱等の理由でその相続権が廃除された場合には、相続人になる可能性があること、しかし、嫡長子孫以外の同一の立場に立つ傍系親が複数の場合には、親族の協議によって相続人を選ぶことになるから、その間に優劣はなく、したがって、この場合傍系親は潜在的相続権、正確にいえば、親族が次の相続人を選定する際の協議の対象になる資格(参照前掲「法制史論集」第一巻中の徳川時代の家督相続法五一二頁)を有していると考えられるが、親族の協議の結果相続人に選ばれなかった者は原則として右の潜在的な相続権を失なうと解されること、
また、相続人の予備軍的な目的で第二種の養弟に迎えられた者が分家した場合には、本家の相続については本家にある者が優先し、養弟は、いわば相続人の予備軍のさらにまた予備軍的な立場に立つことになり(本家の嫡長子孫や傍系親が分家した養弟よりも先順位の相続人の予備軍的なものに立つ)、一般的には本家に関する相続上の地位は非常に弱くなるといえるけれども、事情によっては分家からの本家相続もありうるので、本家に関する相続権が絶対的になくなるというものではなく、その意味では一応本家の相続に関しても潜在的な相続人の範囲の中には含まれると考えられること、しかし、この相続人の範囲に含まれた地位がその相続人によってさらに相続されるか(現行法上でいう代襲相続権があるか否か)との点については、前述のように、第二種の養弟の性格が非常に曖昧なものであることから考えて、直ちに肯定しうるか否かは問題があると解されること、
(10) 被相続人の父千葉A男は明治三年二月先代の千葉A男の戸籍に入籍し、これとほぼ同時期に先代A男の隠居により家督相続をしているので、先代のA男と相続のために養子縁組をしたものと考えられること、なお、先代のA男は右養子縁組後間もない明治三年八月二九日に死亡したものとみられること、
(11) 千葉R男が養弟になった時期は不明であるが、明治八年一一月一五日分家している事実から考えて、右日時より以前であることは確かであり、したがって、この場合の養弟の内容(種類)として考えられるのは、第一は、被相続人の父もR男も共に先代のA男の養子で(戸籍では前述のとおり、単に千葉A男となっているのみなので、このA男が先代のA男なのか、被相続人の父のA男なのかの区別は戸籍の記載のみでは判然としない)、両名は第一種の養兄弟関係にあるとの考え方、第二は、R男は被相続人の父の第二種の養弟であるとの考え方、第三は明治八年以前は未だ年長養子は認められていたこと前述のとおりであるところ、戸籍によれば、被相続人の父の千葉A男は嘉永元年一〇月一〇日生、千葉R男は嘉永元年八月八日生で僅かながらR男が年長者であるから、この点から考えて、R男は被相続人の父の年長養子であるとの考え方、以上三つの場合が考えられること、
(12) しかしながら、まず第一の、R男は先代A男の養子で、被相続人の父の第一種の養弟と考えることは、もしそうであるならば、R男が僅かながら被相続人の父より年長であることからみて、R男の呼称は、被相続人の父A男との関係では養弟ではなく、養兄となったものと考えるのが自然であること、R男が養弟になった時期は不明であるが、複数の養子の中から相続人を選ぶ場合には原則として先に養子になった者が優先すると考えられることからみて、被相続人の父もR男も先代A男の養子と考えれば、被相続人の父が先代A男の家督相続をしている事実に照らして、R男は一応被相続人の父より遅れて先代A男の養子になったと考えざるをえないけれども、一方先代A男は被相続人の父を養子に迎えるとほぼ同時期に(戸籍上は被相続人の父の入籍も相続も共に明治三年二月日不詳となっている)隠居して戸主の地位を退いているのであるから、時間的にみて、先代A男がR男と養子縁組を結んだ可能性は極めて少ないと思われることおよび前記認定のとおり、民法施行前における明治時代の養子縁組の養親は、原則として戸主であることが必要であったことからみて、先代A男が隠居後R男を養子に迎えることは法的に殆んどありえなかったと思われるうえ、先代A男は隠居後間もない明治三年八月二九日死亡したと考えられるので、仮に法的には例外として可能であったとしても事実上は極めて困難と思料されること等を総合して判断すれば、無理があること、
(13) 次に、R男は被相続人の父の年長養子であると考えた場合には、前記(6)でみたように、養父にあたるA男に対するR男の呼称はあくまでも養子であり、養弟と記載されることはまず考えられないことからみて、R男を被相続人の父の年長養子と理解することは不自然であること、
(14) ところで、明治一九年八月九日司法省の司令がでるまでは第二種の養弟を迎えることは一応禁止されておらなかったうえ、戸籍上は、被相続人の父A男は明治八年一月B女と婚姻し(但し、当時の事情から考えて、実際には右時点より以前から事実上の結婚状態にはあったものと思われる)、明治九年六月四日被相続人が出生しており、一方R男は被相続人の出生前の明治八年一一月一五日分家しているのであるから、以上の事実から判断するに、被相続人の戸籍上の出生年月日の記載が真実だとするならば(当時は出生の届出が実際の日時より遅れてなされることはしばしば行われていた)、R男はB女の姙娠中に分家したことになり、この事実から考えると、被相続人の父A男はR男を相続人の予備軍として第二種の養弟に迎えたが、養子である自己の相続人を得られる可能性がでてきたので(あるいは、R男の分家の時点では、被相続人が既に出生していたことも当時の届出の実情からみて十分考えられる)、相続人の予備軍としてのR男を分家させたものと解釈するのが合理的であり、したがって、R男は被相続人の父A男の第二種の養弟と考えるのが前記三つの考え方のなかでは最も理由があると思料されること、なお、この場合養弟であるR男の方が養兄であるA男より年長であることが問題とも思われるけれども、もともと第二種の養兄弟関係というものは、当事者の意思によって決定され、第一種の養兄弟関係の場合と異なって、当事者の年令が養兄となり、養弟となることを決定するものではなく、指令中にも年長の養弟を迎えることを認めたものがあることから考えて、R男が被相続人の父より年長であったということは、R男を被相続人の父の第二種の養弟と理解することの支障にはならないものと解されること、なお、既述のように、当時は年長養子も認められてはいたが、通常の場合、年長養子縁組を締結することについてはやはり当事者等の間に倫理的な抵抗感が強く働いたと推測されることや第二種の養弟の場合は直ちには家督相続とは結びつかず、あくまでも相続人の予備軍的な地位にとどまるものであること等もR男が被相続人の父の第二種の養弟であるとの考えの一根拠づけになるものと考えられること、
ニ、以上認定したところによれば、千葉R男は被相続人の父の第二種の養弟であると理解され、次に、右両名の第二種の養兄弟関係から発生するR男と被相続人との親族法上の関係については、第二種の養弟そのものの法的性格が非常に曖昧で理論的にすっきり割り切れないので、R男と被相続人の父との関係が第一種の養兄弟関係にある場合のR男と被相続人との身分関係についての解釈よりは問題はあるけれども、第二種の養兄弟関係の成立によって、R男は被相続人の父の弟に擬制されることになるのであるから、R男と被相続人との親族法上の関係は、兄弟関係とみるよりは叔父、甥の関係になるものとみるのがより合理的であることが認められる。
したがって、R男と被相続人との右身分関係からすれば、現行法上R男が被相続人の相続人になることはありえないから、R男の代襲相続人である申立人宮崎十郎らが被相続人の相続人になることもありえないうえ、さらに、前記認定の事実によれば、被相続人の父A男の相続人の予備軍として養弟に迎えられたR男は、前記認定したように、分家からの本家相続ということも場合によってはありえないことではないので、分家後も本家に対する潜在的な相続権を完全には消失していないとはいえても、R男のこの本家に対する相続人としての地位がさらに同人の相続人に相続されるかとの点については、そもそも第二種の養兄弟関係は養兄および養弟になる当事者限りで直接設定し、成立させるものであり、しかも第二種の養弟の法的性格が非常に曖昧なものであることを考えると、直ちに肯定しうるか否かは問題であると解されるのであるから、結局、R男と被相続人との身分法上ならびに相続法上の関係等のいずれからみても、申立人らの被相続人に対する相続権は否定するのを相当と考える。
よって、宮崎十郎ら八名の申立人の、被相続人の実質的な相続権者であるから被相続人の特別縁故者に該当するとの主張は、理由がない。
ホ、なお、≪証拠省略≫によれば、宮崎十郎ら八名の申立人と被相続人との間においては、被相続人の存命中特別縁故事由に該当するような交際等はなされていなかったことが認められ、その他本件全資料によるも、同申立人らと被相続人との間で具体的、実質的な縁故事由に該当すべき事実は見出せない。
また、≪証拠省略≫によれば、申立人宮崎十郎の父母であるf夫、d子と被相続人との間で交際があったことは認められるけれども、右交際の程度、内容をもって、f夫、d子と被相続人との間に特別縁故の関係と同様の関係があったとみることは困難であるので、申立人宮崎十郎らと被相続人との関係に、f夫、d子と被相続人との関係を付加して総合的に判断しても、同申立人らと被相続人との間に特別縁故の関係があるとは認められない。
ヘ、以上によれば、申立人宮崎十郎ら八名の申立人は被相続人の潜在的(実質的)な相続権者ではなく、かつ他に同申立人らと被相続人との間において特別縁故関係に該当すべき事実は見出せないから、結局、同申立人らは被相続人の特別縁故者には該当しないものというべきである。
第七、分与額について
一、相続財産の内容
≪証拠省略≫によれば、相続財産の内容は、昭和五〇年一二月三一日時点で預金四三口座(普通預金二口座、定期預金四一口座)総額約一五億二〇〇万円余、株式三三銘柄、四三万株余、帳簿価額(券面額)合計約三、七〇〇万円余、什器備品合計約一四〇万円、土地六三筆、地積合計約七、〇〇〇坪、帳簿価額合計約九億四、六〇〇万円余、建物一六棟、延建坪合計約九八〇坪、帳簿価額合計約一、五〇〇万円余等にのぼるもので、その総額は不動産を帳簿価額通り評価し、また株式を券面額のみで計算する等しても、約二六億円余にもなる莫大なものであり、また昭和五〇年一月一日から同年一二月三一日までの年間収入は、預金利息約九、九〇〇万円、土地賃貸料約六、八〇〇万円余、家屋賃貸料約八八〇万円余(土地および家屋の大部分は第三者に賃貸中である)、建物改築承諾料、一時賃貸料等の雑収入約一、三五〇万円余等合計で約一億九、三〇〇万円あり、一方同年の年間支出は約五、五〇〇万円だったので、同年の利益は約一億三、八〇〇万円であったこと、ところで、土地の帳簿価額の総額は、昭和五〇年一二月三一日時点で、約九億四、六〇〇万円余であることは前記のとおりであるが、一方昭和五〇年五月三〇日時点で、昭和四八年度の公示価格、最寄地点価格等を参考にして土地の評価額を試算した場合、約五〇億円であるとの試算結果も存することが認められる。
二、特別縁故者に対する分与額
1 申立人福島三郎
申立人は、前記認定のとおり被相続人の異母弟で、本件では実質的には被相続人の相続権者であるから、父A男の認知を受けてさえいれば、本件相続財産全部を取得しうる立場にあるものである。
しかも、前記認定の、申立人の母C女はA男のいわゆる妾であったという特別な事情(なお、両者の右関係は明治時代のものであったことにも注意する必要がある)およびA男が死亡したのは明治四〇年で、しかもその当時申立人は僅か一一才であったこと等を考えると、申立人がA男の認知を受けえなかったことについては、同人にはやむをえなかった事情があったものとみることも可能である。
したがって、以上の点を重視すれば、他の特別縁故者に比較し、申立人には相続財産中かなりのものを分与すべきとの意見もありうるかも知れない。
しかしながら、前記認定したように、申立人は明治四〇年頃からは被相続人と全く没交渉で、被相続人の死亡時までその消息も知らなかったうえ、本件全記録によるも、申立人が右時点以後被相続人の消息を知ろうとしたり、あるいは同人との面接交際を求めようとした事実は窺えず、一方前記第六の三の1掲記の資料によれば、被相続人が生前相続財産の処分について申立人の存在を考慮していたような事実は見当らず、また被相続人がこれ程の資産家になるについては、父A男の財産の存在も特に当初においては一原因になったものとは思われるけれども、それ以上に被相続人の資質、努力等によるところが大であったと考えられ、したがって、分与の対象となる相続財産は必らずしも父A男の遺産の変形とはみられ難い等の事情が認められるので、以上を総合して判断すれば、申立人と被相続人との特別縁故関係の内容をもって、申立人への分与額が他の全ての特別縁故者へのそれよりも多く評価されなければならないと解するのは相当とは思われず、結局、申立人へ分与すべき額は、相続財産の内容、他の特別縁故者への分与額等も考慮したうえで、金五、〇〇〇万円をもって相当と解する。
2 申立人千葉二郎
前記第六の三の2で認定した申立人と被相続人との特別縁故関係の内容、申立人の長男千葉T男の居住する土地と家屋は、被相続人がT男を居住させるために購入した事実ならびに右各事実に申立人の家族の中では家族を代表する形で申立人のみが申立を行ってはいるが、前記第六の三の2で認定したところによれば、実質的には、申立人の子のT男やU女も被相続人の特別縁故者に該当するとみる余地もありうること、第六の三の2掲記の資料によれば、申立人ら家族の生活は相当切りつめたもので、預金等をする余裕もなく、また被相続人は第六の一で認定したとおりの珍らしい程の倹約家であったので、普通の家庭で行われていることが同人には贅沢と映り、そのため、たとえば申立人ら家族は家には風呂があったにもかかわらず、不経済との理由で銭湯に行かされ、またガスを引いたのは昭和三六、三七年頃で、洗濯機、冷蔵庫、湯沸器等もなかなか購入されず、昭和三七、三八年頃になってようやく購入されたとの事実が認められ、右事実から推測すれば、申立人一家の生活程度は裕福なものであったとは思われず、申立人ら家族は被相続人との同居期間中精神的にも、又経済的にも苦労した生活を送ってきたものと考えられること等を総合して考慮すれば、申立人に対し、被相続人の相続財産の中から金八、〇〇〇万円および別紙目録(一)記載の不動産を分与するのを相当と考える(なお、申立人は現住地に昭和二〇年から被相続人と居住してきたものであるから、右土地および家屋を分与することの相当性についても検討の必要があるが、右宅地面積は約三五〇坪余、右宅地内の傾斜地の山林二反三畝二三歩、家屋(木造スレート葺二階建土蔵付)の延建坪は約一一〇坪あり、右全部の評価額は前記第七の一記述の試算結果によれば、二億円をこえるものとされているので、その額から考えると、右土地および家屋を申立人に分与するのは相当と思われないので、申立人には分与せず、後記5のとおり、学校の行事等の場合に使用することを理由に右土地および家屋の分与を希望している申立人学校法人○○学院―申立人も、自己に分与されない場合には、同学校に分与されることを申立てている―に分与することとする)。
3 申立人山梨六郎、同和歌山種子、同広島咲子
前記第六の三の3で認定した承継前申立人山梨五郎と被相続人との特別縁故関係の内容等一切の事情から考えると、申立人らに対し、本件相続財産の中から総額四〇〇万円を分与するのが相当である。
4 申立人福島春子、同福島夏子、同福島秋子、同福島冬子
イ、申立人らは同人らの現居住土地の分与を希望している。
前記第六の三の4で認定したように、右土地のうち、二〇番ないし二三番の土地は元申立人らの祖父福島F男の所有地であったが、父G男の時に事情があって被相続人の所有に移ったものであること、被相続人は上記土地を取得後も、申立人ら家族を同土地の管理をさせるという形で長年月にわたって同土地に居住させていたものであり、また、≪証拠省略≫によれば、被相続人の死亡一年程前に、申立人らの同土地からの転出話が出た折に、被相続人が申立人らに対し転居の必要はないからそのまま居住しているようにといって、右転居の計画を中止させたことが認められ、以上に、祖父の代から同土地に居住してきた申立人らの同土地に対する愛着等を併せ考えると、申立人らが二〇番ないし二三番の土地を含んだその居住土地の分与を求めるのは心情的には理解できるものではあるが、一方第六の三の4で認定したように、申立人らと被相続人との縁故関係の内容はあくまでも被相続人が申立人らのために尽したというものであるうえ、≪証拠省略≫によれば、申立人らが居住している大阪市○○○区○○○町二〇番ないし二四番の土地は総面積六、六〇〇平方メートル余の広大なもので、その価額は一〇億円を下らないものと思料されること、同土地に申立人らを居住させていた被相続人の意思も永久的なものであったかについては疑問があり、申立人の不動産に対する考えからみて、他に利用する時期がきたら利用したのではないかとも考えられること、大阪市が被相続人に同土地の寄付の要請を行った際も、被相続人は申立人らに同土地を譲る予定である旨の話はしなかったこと、岡本拓は被相続人に申立人らへの生活費の増額を勧めたことがあるが、その際被相続人は余計なことはいわないでくれとの態度をとり、死亡時まで、二万円の送金額を増額しようとはしなかったこと等を総合して考えると、申立人らに対し同土地を分与することは相当とは思われない。
ロ、そこで、申立人らに対する分与額を考えるに、前記第六の三の4で認定した申立人らと被相続人との縁故関係の内容その他一切の事情を考慮すると、申立人ら各自に対し、被相続人の相続財産の中から金四〇〇万円を分与するのを相当と解する。
5 申立人学校法人○○学院
イ、前記第六の一および三の5で認定したところによれば、申立人学校と被相続人との縁故関係は極めて濃いもので、申立人学校の経営こそは被相続人が最も情熱を燃やして行っていた事業といえるものであり、また、被相続人が生前申立人学校に短期大学設置の計画を有し、事情により右計画は被相続人の存命中には実現しなかったけれども、自己の死後においても被相続人がその設置を願望していたことは明らかである。
一方、前記第六の三の5掲記の資料によれば、申立人学校が現在短期大学設置の計画を有していること、申立人学校が短期大学の設置を希望することは、申立人学校の存立、将来の発展等を考えるともっともなことと思料されること、申立人学校は短期大学設置のための財源として、被相続人の相続財産を希望していることが認められる。
以上のことから考えると、申立人学校に短期大学が設置され、被相続人にとって殆んど唯一の公共事業ともいえる申立人学校の存立の中に被相続人の名が末永く残るならば、それは被相続人の遺志に最も叶うものであろうと思料される。
したがって、当裁判所は申立人学校に対し、短期大学の設置に必要と考えられる範囲内で被相続人の相続財産を分与するのを相当と解する。
ロ、そこで、短期大学設置の資金として、具体的にどの位の金額が必要とされるのかとの点についてみてみるに、≪証拠省略≫によれば、申立人学校は現在文学部(英文学科)、家政学部(服飾学科、食物栄養学科)、保育学部(保育学科)三学部、学生数八〇〇名を擁する短期大学を設置する計画を有し、右設置費用として約四四億一、〇〇〇万円を考えているが右金額は一応の合理的理由があるものとみられること、財源の確保が可能であるならば、一応申立人学校の計画している短期大学の設置認可に格別支障はないと思料されること、申立人学校には短期大学設立の財源として、自己資金はなく、その他格別のものもないことが認められる。
一方、申立人学校代表者理事長千葉二郎審問の結果および前記第六の三の5で認定した、被相続人が母校の大阪市立大学へ時価一〇億円はあると思われる土地を寄付した事実およびその際の被相続人と島根申立人学校校長との会話の内容等を総合して考えると、被相続人の存命中に申立人学校に短期大学が設置されたとしたならば、被相続人がその財源のかなりの部分を自己の相続財産をもってあてたであろうことは十分推測しうるところである。
ハ、以上によれば、申立人学校に対し、短期大学設置の費用約四四億円に相当する財産を分与するのを相当と思料するので、被相続人の相続財産の中から、金一二億円および別紙目録(二)記載の不動産、同目録(三)記載の有価証券、同目録(四)記載の動産を分与することにする。
6 申立人財団法人○○○○協会
前記第六の三の7で認定し、かつ、昭和四五年(家)第八一三号事件記録、前記第六の三の5の認定事実から認められるところの以下の事実、すなわち、申立人協会と被相続人との縁故関係の内容、程度、被相続人はもともと青少年の育成について多大の関心を有しており、また申立人協会の事業方針、活動内容を理解し、賛同していたとみうること、被相続人は生前、具体的な内容はともかくとして、申立人協会に対する寄付について一応考えていたと思料されること、被相続人存命中における同人の申立人協会に対する寄付の時期、回数およびその金額、申立人協会の事業の公共性、将来の事業計画および財政状態、申立人協会および前記5の申立人学校法人○○学院と被相続人との縁故関係の内容、程度の比較等一切の事情を考慮すれば、申立人協会に対し、被相続人の相続財産の中から金七、〇〇〇万円を分与するのを相当と考える。
7 申立人千葉(旧姓群馬)さつき
イ、申立人は調査の際、被相続人が申立人に神戸市○○区○○所在の被相続人居住家屋の居住権を分与する旨述べたと陳述し、千葉二郎も調査官に対し、申立人の陳述を肯定するような陳述を行っているが、≪証拠省略≫に対比すれば、申立人らの陳述のみでは必ずしも被相続人の分与の意思が確定的に明確になされたと認めるのは困難であるので、申立人に対する分与額を検討するについては、申立人らの右陳述を考慮する必要はないものと考える。
ロ、前記第六の三の8で認定した申立人の仕事の内容および従事した期間、看護態度、報酬を得ていた事実および報酬額等一切の事情を考慮すれば、申立人に対する分与額は、金二〇〇万円をもって相当と解する。
第八、よって、主文のとおり審判する。
(家事審判官 武田和博)
<以下省略>